車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

土田神明社 in 愛知県清須市

2016年12月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県清須市土田に鎮座される「土田神明社」。御祭神は『天照大神』。境内には由緒を伝える物は無く、詳細は不明。

薄い桜色に塗られた漆喰造りの御本殿。

同じく漆喰づくりの拝殿。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、大正二年八月奉納の浪花狛犬さん一対。私たちはこのタイプの狛犬さんを「髭オヤジ」と呼んでいます(笑)。吽形さんの足元には転がり落ちかけて必死に親狛の足に噛り付く子狛。阿形さんは毬に手を置き、笑いながら仔狛を見守っています。

頭と尾っぽを間違えた友人がいたので、念のために頭は向かって右です(笑)

狛犬さんの紹介はポーズが同じものを選んでいるので、たまには横とか後とか。見事にセットされた尾とか、流れるたてがみとか、中々お洒落。台座には名古屋市西区八坂町 石工 角田六三郎

境内の一画に奉納された石、もしくはセメント製の御神馬。戦時下の金属類回収令でこの素材となったのか否か不明ですが、それでも見事な日の丸の腹掛けを見た時は、痛い程の感動を覚えました。

こうした事実を以てして「あの戦争は間違いだ!!」と口角泡を飛ばす人がいる事を否定も肯定もしません。戦争を知らない世代が、知った風な口を利くなどおこがましいと思っています。それでもこの日の丸の赤に込められた想いに触れる時、今生かされている事の有難さに心を揺さぶられるのです。

境内を包み込むような淡い薄紅の八重の桜。今日は何故か目に染みます。

参拝日:2011年4月24日

 

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上条稲荷神社 in 愛知県清須市上条

2016年12月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県清須市上条に鎮座される「稲荷神社」、御祭神は不明ですが、おそらくは『宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)』と思われます。

鳥居の向こうに昭和十四年十月奉納の石造り連子窓型蕃塀。「石匠:角田六三郎」の銘。

連子窓上部に阿吽の双龍、羽目板左右に阿吽の獅子、中央に虎が掘り込まれています。

中々に不敵な面構えの獅子

どことなく愛嬌を感じさせる竹林の虎

四面吹き通しの開放的な拝殿

後方に鎮まられる「稲荷神社御本殿」。右に「須佐之男神社」。 左に「飯縄神社」が共に鎮まります。

玉垣下、左右より神域を守護されるのは、明治から大正にかけて様々なタイプの狛犬を生み出した枇杷島町石工荒木弥助』による、大正七年十月建立の狛犬さん一対。

満開の牡丹を咥える吽形さん。足元には大人しくうずくまる仔狛。片手は岩の上に、もう一方の手の下には毬を置く吽形さん。今回の愛知県車泊旅で出会った一押しの狛犬さんにご亭主殿大喜び。惜しむらくは長い年月によって失われてしまった阿形さんの顎・・・

にしても、この仔狛の不敵な面構え(^^;) 末が楽しみ(笑)

蕃塀の内側に置かれていた旧拝殿の鬼瓦

境内の一画に見つけたのは、和服の柄にしてみたいような可憐な花。さて何の花なのか・・

参拝日:2011年4月24日

 

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西田中:神明社 in 愛知県清須市西田中

2016年12月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

清須市西田中本城に鎮座される「村社 西田中・神明社」、御祭神は『大日霊尊(おおひるめのみこと)=天照大神、菊理媛神(くくりひめのかみ)』

鳥居の奥に昭和十二年十月 奉納の「石造り連子窓型蕃塀」。連子・羽目部分ともに飾り彫りはありません。羽目裏部分に「石 工:コメノ ・石工:井上」の記名在り。

境内一段高くに四方吹き抜けの開放的な拝殿

拝殿まっすぐ奥に鎮まられる御本殿。由緒書より「古来この地の産土神として大日霊尊を奉斎し大正元年十二月境内末社白山社を合祀、現在二柱の神を祀る」

本殿左右より有神域を守護されるのは大正三年三月奉納の浪花タイプの狛犬さん一対。愛知県で目にする浪花タイプは、みな一様に鼻の下の髭が立派。
吽形さんは子狛をしがみつかせ、阿形さんは大層綺麗な細工の毬を手の下に置いています。

で・・この仔狛さんですが、どの部分が顔なのか実は判断に迷っています。御亭主殿に言わせると、そっくり返っているから上が口で真ん中が鼻だと断定しましたが・・・・??謎(笑)

屋根の上の留め蓋獅子さん。まるで羽のように大きく顔毛を広げて、さてさて、何処に行こうというのでしょう?

境内の一画に降ろされていた先代の留め蓋獅子さん。個人的にはこちらの顔立ちの方が好み。ともあれ、こうして境内でちゃんと守護の任を勤めていられて良かったですね(^▽^)/

〆勧請が渡された鳥居。小さなお子様以外は屈まなければ潜れない低さです。

参拝日:2011年4月27日

 

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日吉神社(清洲山王宮 ) in 愛知県清須市

2016年12月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県清須市清洲に鎮座される「清洲山王宮 日吉神社」。御祭神は『大己貴命、素盞嗚命、大山咋神』

創始「宝亀二年(771)尾張地方に疫病が流行した為、素盞鳴命・大己貴命を祀り、病災除去の氏神とした。大同二年(807)橘逸勢(たちばなのはやなり)が社殿を建立。又伝教大師による天台宗の布教とともに神仏習合説が広まり、山王宮と称されるようになった。尾張の国府が清洲に移されてからは、清洲総氏神として信仰を集め荘厳な社殿が構えられた。天正八年(1580)、清洲城代織田信張により、近江坂本の日吉大社より大山咋神と摂社二十一社を勧請。明治以降、社名を山王宮から日吉神社と改め、県社として尊崇された。」公式HPより

木造檜皮葺きの蕃塀。左に「厄をさる福を招く天下随一お申神社」

拝殿前左右より神域を守護されるのは烏帽子姿で正装した、大正十年十月十日 :奉猿会奉納の青銅製の神申像一対。日吉神社の神使いは申とされており、肩に御幣を担いだ姿勢で参拝者を迎えてくれます。

拝殿屋根の留め蓋にも御幣を担いだ神申さん。

一生懸命神申像を写していたら、拝殿内にも神申象があるから見ても良いと、宮司さんのお言葉。それはもうどれだけ嬉しく舞い上がったか(^▽^) あまりの嬉しさに社伝の撮影をすっかり忘れてしまいました(-"-)

拝殿内にて神域を守護されるのは白磁の神殿狛犬一対。

神殿横左右に奉納されていた神猿様三対

奉納絵馬は、織田信長の家臣であった『伊藤蘭丸』によるもの。松坂屋の創業者『伊藤次郎左衛門』の祖で、故あって清洲の地で絹布商を営み、その後松坂屋へと大発展させた人物です。ただし、現在神殿に掲げられている絵馬は、明治時代に『小田切春江』によって描かれた複製だそうです。

社務所で売られている「御幣を担ぐ神申絵馬」は、上記の絵馬をモデルとしています。

こちらの絵馬には特に謂れはありませんが、おそらくそれなりの方が奉納されたものなのでしょう。

拝殿前より神域を守護されるのは明治四十一年卯月上旬奉納の狛犬さん一対。いわゆるブタ鼻のでこっぱち、額から肩の左右に大きな毛玉をつけたユニークな顔立ちですが、じっくり拝見させて頂くと中々に味わいのあるお顔(笑)

有難く拝殿を辞して境内に戻れば、ここにも『井上北斗氏』奉納の巨大申絵馬。御祭神の使いである申(猿)にちなんで、2004年(申年)の正月に神前にて描かれ奉納されたもの。畳約八畳大(縦3メートル×横4.5メートル)で、神前にて描かれた絵馬としては最大級となっている旨が、駒札に記されています。

古来より神社の一角にある「子産石」は、女性が触れるとたちどころに懐妊するという霊験あらたかな石。豊臣秀吉の生母は、この子産石に触れて秀吉を授かり、幼名を『日吉丸』と名付けたと伝えます。

境内社「山王稲荷社」

名古屋藩の第4代藩主『徳川吉通公』が、正徳三年(1713)に、山王神霊の分霊と共に山王稲荷として移し祀られたもので、江戸時代の終り頃の創建と伝えられています。

遠い昔、傀儡(かいらい)と呼ばれた芸能者が旅の途中、当社に参詣し神前で神舞を奉納し、世俗の怨念、苦しみを祓ったと言い伝えられており、これを「はきだしまいり」といいました。この場所は、そうした負の感情や執着をはきだし、皿に封じ込め、祓い清める場所だそうです。

板碑群の後方に祀られる小社。御社名、御祭神いずれも不明。で、何故この社だけと聞かれて思わず「猫さんが・・・」可愛さに負けて、お賽銭も奮発しました(笑)

板碑群

「神像」役行者のようにも見えますが・・・わかりません。

尾張の神社参拝で久々に出会った二代目・青銅製の御神馬は、昭和41年の再建。

何とも優しい目つきの「吐水龍」

参拝日:2011年4月24日

 

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清洲古城跡公園 in 愛知県清須市清洲

2016年12月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県清須市清洲古城、清洲城の対岸に位置する「清洲古城跡公園」。公園入り口には大正11年(1922)に建立された「清洲古城蹟」の碑。

昭和63年(1988)に緑豊かな市民の憩いの場として再整備された「清洲公園」。正面の一段高い場所、天守台跡には『織田信長公』を祠る小社が大切に祀られています。

公園内の一段高くなっている場所に建つ『織田信長公』の像。永禄三年(1560)「桶狭間の戦い」に出陣する織田信長、この時二十六歳。見据える彼方には2万5千の大軍を率いて尾張に侵攻した今川義元が待ち受ける「桶狭間」。この時、信長公が首にかけた数珠は、味方の士気を大いに高めたと言われています。

「右大臣織田信長公古城跡」碑は、弘化年間(1844~1847)の頃、清洲総年寄であった『武田晨業(ときなり)』が建立。晨業は五条川に埋没していた古塁石を発見し、これに『尊寿院雲阿僧正』が揮毫し、本丸跡に建立したものです。

また右手の碑は、宿場町の清州宿で本陣役を務めた『林恪』が、文久2年(1862)に建立した「清洲城墟碑」。碑文は、戦国の世を統一し太平の世を築いた信長、それを継いだ秀吉の功績を讃え、またその偉業は清洲を本拠として尾張を平定したことに始まること等々、更に『林恪』が建碑を思い立った経緯が細かく刻まれています。

「右大臣織田信長公古城跡」碑の近くに置かれていた「織部灯籠」。俗にキリシタン灯籠とも呼ばれますが、刻まれたお姿は、私にはお地蔵様以外のお姿は見えません。

「清州ふるさとの館」に展示されていた能面六作。能と言えば信長が出陣の際に謡い舞ったという「敦盛」の一節。ずっと昔、戦国漫画のワンシーンで、炎に包まれた本能寺の館の中、低く謡を口ずさみ舞う信長の姿が子供心にも鮮烈で今でもその場面を思い出す事が出来ます。

【~人間五十年 下天(げてん)のうちを くらぶれば~~ 下天のうちを くらぶれば~ 夢 幻の如くなり~~】

豊かな緑に包まれた清州公園。時折列車の通過する音が聞こえる以外、後は爽やかな緑の葉擦れのみ。

春の最中の、淡い紫の藤棚。

私たちが訪問した後の2012年夏、信長公の銅像の脇にドラマ館の前にあった濃姫像が移設されました。桜の名所としても知られ、市民に親しまれているこの公園は、「始まりの地~二人の愛と希望の丘」と称し、夫婦円満、恋愛、立身出世、必勝祈願のパワースポットとなったとか。部下に裏切られ本能寺で自害して果てた信長さん・・本当に立身出世、必勝祈願で良いんですか?(^^;)

訪問日:2011年4月24日

 

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清洲(きよす)城 in 愛知県清須市

2016年12月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県清須市朝日城屋敷、五条川に架かる朱塗りの「大手橋」を渡った先に見えてくる「清須城」

大手橋のこの位置が絶好のロケーションポイントらしく、御亭主殿の他にもポーズをとっている観光客。清須市のシンボルともいえる「清須城天主閣」ですが、1989年に再建整備された模擬天守 (-"-)。

「室町時代応永12年(1405)、尾張国の守護職:斯波義重が、下津城(稲沢市)の別郭として建てたのが清須城の始まりとされる。文明8年(1476)の戦禍で下津城が焼失した為、守護所は清須に移転。尾張国の中心地となった清須は、京や鎌倉に連絡する往還と伊勢街道が合流する交通の要衝として尾張の政治・経済・司法の中心地となった。 弘治元年(1555)に那古野(なごや)城から入城した織田信長は、尾張を統一掌握。やがて永禄3年(1560)の桶狭間の戦いに勝利し、ここ清須から天下統一への第一歩を踏み出した。」清須市公式HPより抜粋

「天正10年6月2日、光秀の謀反により本能寺で自害して果てた織田信長。清須会議の後、城主となった次男の信雄は清須城の城郭改修に着手。それは天守を備え、東西1.6km、南北2.8kmにも及ぶ巨大な郭域の中に城下町のあらゆる機能を備えた城塞都市として過去最大の規模であった。」と続き・・

「関ヶ原の戦いでは、東軍の重要な軍事拠点となり、関ヶ原以後、城の主は家康の四男、九男へと変遷。 慶長15年(1610)、家康は、清須城廃城と名古屋城築城を命じ、町の機能全てが移転する「清須越」を決行。これにより尾張の政治・経済・司法の中心は清須から名古屋へ移り、清須城とともにその城下町は歴史から姿を消し去った。」と結ばれます。

1989年、四百年近くの年月を経て甦った「清洲城」。とは言え・・歴史的な遺産として見るには流石に無理がある煌びやかな佇まい(^^;)

ここは潔く「観光地」として割り切るのが良し(^▽^)/

そうと気持ちを切り替えれば、これはこれで土産話の材料としては充分(笑) まずは大手門。その左右に続く「信長塀」は、兵庫県西宮神社の大練、京都市三十三間堂の「太閤塀」と共に「日本三大練塀」と言われるもの。

名の由来は、桶狭間出陣途中、熱田神宮に戦勝祈願した信長が大勝した礼に築地塀を奉納した事に由来。土と石灰を油で練り固め、瓦を多数積み重ねて作った「信長塀」はそれをモデルに作られました。

天守の入り口に作られた中庭。三重県の菰野砂利が敷き詰められた上に、岐阜御岳石の巨石が配されています。天守閣へはこの庭の横に設けられた通路を通っていきます。

高い所は大の苦手。必要不可欠な場合以外は避けたい私に付き合って、天守閣の観光はこれで終了(笑)

「復元された本石垣は、平成八年に河川事業に伴い実施された遺跡調査により、清州公園前の五条川右岸(現地は下流二〇〇米に銘板で表示)で発見されたもので、清州越直前の本丸南側の石垣と考えられている。
石垣の基礎は、軟弱な地盤に耐えられる様に松材を用いた「梯子胴木」と呼ばれる構造になっており、石材はこの基礎の上に「野面積み」と呼ばれる戦国時代にかけて用いられた技法により積まれている。」清州城の石垣より

大手門の近くにあった白漆喰壁の土蔵。特に説明など無かったので、清州城とは無関係だったかも。

ドラマ館の前に建てられた「農姫(信長の妻)像」と、観光地お約束の顔出し。 ご亭主殿曰く、一気に力が抜ける・・そうです(^^;)

訪問日:2011年4月24日

五条川の対岸に位置する「清洲古城跡公園」。続きは明日に (^▽^)/。

 

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ご当地マンホール in 愛知県清須市・旧清洲町

2016年12月15日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛知県

清須市(きよすし)は愛知県西部、尾張平野のほぼ中央に位置し、南東部は名古屋市、北部は北名古屋市・一宮市・稲沢市に、西部はあま市に接しています。市域には尾張平野最大の「朝日貝塚」を擁し、室町時代のはじめ守護所下津城の別郭として築かれた清洲城など数多くの歴史資源が残されています。弘治元年(1555)に織田信長が清洲城へ入城し、慶長年間には城下町一帯が「関東の巨鎮」と称され、文化の中心地として、また尾張の要所として栄えてきました。「市の木:花水木」「市の花:桜・チュ-リップ」を制定。

キャッチフレーズは「水と歴史に織りなされた安心・快適な環境都市 清須市」

2005年、西春日井郡清洲町、西枇杷島町、新川町が合併して発足。

2009年、西春日井郡春日町を編入、現在に至っています。

マンホールは市章を中心に置いた規格蓋ですが、この当時に見つける事が出来た貴重な一枚です。

2005年7月7日制定の市章は「2色のブルーの輪は、“水”と“未来”を象徴し、河川の流れと調和のとれた発展を表しています。また、水紋が重なり響き合うイメージは、安心・快適・創造のまちづくりが実現される姿を示しています。 清須市が、豊かな歴史環境や水辺環境を生かした魅力ある環境都市として飛躍する姿を表しています。」公式HPより

清須市イメージキャラクター『きよ丸』、清須市の花「桜とチューリップ」をあしらった着物と清須市章の旗印がお気に入りの清須男児。『うるるん』は清須のまちに流れる3つの川を見守る「川の妖精」。右手に持っているのは魔法の杖なのです。

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旧西春日井郡清洲町(きよすちょう)は愛知県名古屋市の北西に位置した町です。古くは尾張国の中心部に位置し、京鎌倉往還と伊勢街道が合流し中山道にも連絡する交通の要所として栄えてきました。清州町を代表する鉄筋コンクリート造りの模擬天守は、町制100周年を記念して、清洲城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内に建設されたものです。「町の木:金木犀」「町の花:桜」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、西春日井郡清洲村・朝田村・一場村が発足。

1906年、西春日井郡清洲村と朝田村、一場村が合併、調整を施行し西春日井郡清洲町が発足。

1909年、中島郡大里村西市場地区を編入。

1910年、海部郡甚目寺村廻間地区を編入。

1943年、海部郡甚目寺町土田・上条地区を編入。

2005年、西春日井郡西枇杷島町、新川町と新設合併、清須市となりました。

清州町のマンホールは、町章を中心に置いた名古屋型と呼ばれる規格蓋のみです。

昭和47年9月18日制定の町章は「頭文字の「き」を図案化し、全体の形で清州城を想像したものです。」合併協議会資料より

仕切弁

消火栓

撮影日:2011年4月24日

 

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宝昌寺(ほうしょうじ) in 愛知県大治町花常

2016年12月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県大治町花常東屋敷に門を構える曹洞宗寺院「宝昌寺(ほうしょうじ)」。円空寛文期の初期作『釈迦牟尼仏坐像』を本尊とします。創建は慶長三年(1598)とされていますが、こちらのお寺に関しては何の知識も無く、偶然行き会わせるという僥倖に恵まれての参拝。

隣接する「花常八幡社」の参拝を終えた時、何かに呼ばれた様に立ち寄らせて頂いた地蔵堂。

内には沢山の石地蔵様が納められており、何とも言えぬその穏やかなお顔に心が休まるような温もりをおぼえました。

穏やかで温かくて・・・なんて優しい微笑み。

地蔵堂の横にもう一つ小さな祠があり、そちらには石地蔵様が一体だけ安置されています。

地蔵堂の横に在る朱の鳥居は稲荷の社でしょうか? お社の場所がトンと分からず満開の桜に手招きされるようにそのまま境内へ。

鳥居の外で咲き誇る艶やかな牡丹の花に誘われて。

御亭主殿は本殿前に置かれた一対の狛犬さんを見つけて即撮影開始。岡崎でも浪花でもない・・でもどこかでお見掛けしたようなお顔立ち。ご住職の奥様のお話では明治32年頃の物ではないかとの事でした。

狛犬さんのお写真を撮らせている時、本堂横のご自宅からご住職様らしきお方と奥様が脚立を持って出てこられました。御挨拶をすませ何をなさるのかお尋ねすると、桜を切って塩漬けにするとの事。

七部くらいに開いた桜を摘み取り塩漬けにして「桜茶」になさるとか。ほんのりとした塩味と桜独特の香りが気に入って何度か購入した事がありますが、ご自宅の桜で簡単に作れるとお聞きし、ビックリ! 興味津々の私に丁寧に作り方まで教えてくれた奥様。いつか挑戦したいと思いながら、結局八重の桜花が入手できず、そのまま今に至ってしまいました。

参拝日:2011年4月24日

 

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花常八幡神社 in 愛知県大治町花常

2016年12月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県大治町花常東屋敷に鎮座される「花常(はなつね)八幡神社」。御祭神は『応神天皇』

創建・由来等不詳

一の鳥居を潜ってすぐに昭和30年(1955)奉納の「石造連子窓型蕃塀」。上部の欄間には「八幡神社」の扁額を護る双龍。羽目部左右に獅子、中央には八幡様の神使い「鳩」。

背面に「東枇杷島町 荒木石材店」の刻。連日の神社参拝で目にする蕃塀。いくつかの共通点と相違点の面白さに、俄か蕃塀ファンになった感のあるご亭主殿(笑)

開放的な拝殿。ここでも手前に石造りの燭台立てが置かれています。

拝殿欄間の彫刻は、中央に「龍」。左右に八幡神の神使いとされる「鳩と清松」。

拝殿と本殿を繋ぐ幣殿

幣殿の奥・本殿近く左右より神域を守護されるのは、大正七年五月建立の狛犬さん一対。ぽってりとした体格、鼻の下にふさふさの髭を蓄え、吽形は子狛を、阿形は玉を持っています。

背をそらせ、親狛を見上げる仔狛の愛らしい顔と仕草に胸キュン。

本殿向かって右に鎮座される、社名不明の摂社。

遥拝門左右より神域を守護されるのは、昭和四年一月建立の狛犬さん一対。耳まで裂けた口元を覆う大量の毛。とがった鼻・・まるでSF映画に登場する悪役インベーダーみたい(^^;)

参拝日:2011年4月24日

 

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ご当地マンホール in 愛知県大治町

2016年12月12日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛知県

海部郡大治町(おおはるちょう)は愛知県の西部、濃尾平野の南西部に位置する町です。南北に流れる一級河川の庄内川、新川と二級河川の福田川の間にあり、東西2.4キロメートル南北3キロメートルのほぼ正方形で、面積は6.59平方キロメートル。名古屋市、あま市と隣接しています。面積は県内で豊山町に次いで2番目に小さいものの、人口密度は東海地方で名古屋市に次いで第2位。全国の町村では第3位 となっています。

キャッチフレーズは「笑顔あふれ みんなで育む 元気なまち おおはる

明治22年(1889)、町村制の施行により、海東郡大治村が発足。

1913年、海東郡・海西郡が海部郡となり、海部郡大治村となる。

1975年、大治村が町制を施行、海部郡大治町となる。

2021年にデザインマンホールが設置されたようですが、私の手元に在るのは中央にイメージアップマークがある規格蓋のみ。

制定年月日不明、イメージアップマーク「は大治町を流れる庄内川、新川、福田川と大治町のイニシャル「O」。オーと感じられるようにOを二つ重ねて「発信と交流」をイメージしたもの。全体の形は、未来に向かって「大きく飛翔する大治町民の姿」を表現している。」公式HPより

制定年月日不明、町章は「「大」を丸く図案化し、中央に「治」を配置して、円満な町政を表現している。」公式HPより

大治町マスコットキャラクター『はるちゃん』。大治町特産の赤しその妖精。チャームポイントは大きな目と赤しそのしっぽだそうです。・・・そうか、しっぽが有るのか(-"-)

撮影日:2011年4月24日&2017年3月28日

 

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