神域と呼ぶにふさわしい空気の中、この場所に立てた事を感謝し尚且つ、素晴らしい匠の技を堪能できた事、まさに旅の醍醐味を満喫しています。御神体である有明山に見守られつつ、「有明山神社」のラストは~其の一で紹介しきれなかった境内のアレコレ😊
「裕明門」を潜った先、境内右手に立派な覆い屋根を持った土俵があります。例祭などで奉納相撲の神事が有るのかもしれません。何しろ御祭神の一柱は力自慢の『手力男命』ですから。
拝殿に向かう参道の右手に「開運・招福の石」なるものが。なんでもこの「口」の部分を潜り抜けると運が開けて福を授かるらしく、東面に「吾(われ)只(ただ)足(たる)知(しる)」。「必要以上に欲張らず、今ある幸せをちゃんと見なさい」という意味と理解しています。京都の龍安寺にこの文字が彫られた「知足の蹲居(つくばい)」があり、実際に拝見させて頂いたことがあります。
西面には「吉(きち)呼(よんで)員(かず)和(わす)」。こちらは初見ですが「喜びを集めて和やかに」という意味のようです。
絵馬もあります。
『岡村阜一(ふいち)』像。「明治11年(1878)、有明山を御嶽山同様の信仰の山とすべく、3年間かけて巨額の私財を投じ有明神社里宮を復興。以後、約30年間にわたり、その付随施設整備のため一生を捧げました。明治13年には、御嶽教と同様に「有明講」を起こし、日夜伝導教化に務め、講数800、講員3,200、信仰者3万520余戸、信徒10万人となり、地方宗教界の一王侯の観がありました。」(安曇野市の先人たちより)
一間社流造りの境内社『有明講の社』
「有明山三十三度登山」記念の碑
神社由来の中で「大正昭和に至り多くの皇族方のご参拝を頂いた」とあるように、境内にはお手植えの木々が豊かに葉を茂らせています。「東久邇宮稔彦王殿下 御手植(大正十年八月八日)」。第二次大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣を務め、後にGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため在任日数54日間で総辞職。並ぶ植樹は、その兄上に当たられる「朝香宮鳩彦王殿下 御手植(大正九年八月十五日)」。
「秩父宮雍仁親王殿下 御手植(大正十二年七月二十四日)」。大正天皇の第二皇子で、昭和天皇の弟宮。
「秩父宮勢津子妃殿下 御手植(昭和四十七年九月十二日)」。旧会津藩主・松平容保公の孫姫。「秩父宮雍仁親王」の御后。
「山階宮武彦王殿下 御手植(大正十四年八月四日)」。昭和天皇の従兄弟に当たられる。皇族で初めて海軍航空隊に所属し、空の宮様と呼ばれた。
お手植えの木々の間に見つけたちょっと珍しい石灯籠。火袋の柱部分が輪っか状態に丸く刳り貫かれ、下部に波兎が彫り込まれています。波兎は縁起の良い題材として、留め蓋瓦や社殿彫刻などに見かける事はありますが、灯籠の柱というのは初見かもしれません。
石灯籠と言えば「妙見 里の瀧」に奉納された石灯籠の竿(柱)の部分も、なかなか興味深い形をしていましたが、あれは多分自然石を用いたのでしょう。
満開の桜の下、手を伸ばせばひらひらと舞い散る花吹雪が髪に・・肩に
有明のお山から下りて来たのか・・・・沢山の猿を見かけたけど、どの子も遠巻きに人の姿を見るだけで、若草の上に有る筈の何かをせっせと探している。どの子も・・本当に綺麗だった・・・。
そうそう、そう言えば一の鳥居の鳥居額は「有眀山神社」と書かれていたのだけど、あれには何か意味があったのかしら? 「眀」読みは「べい・みょう」「みる」。とすれば何と読めば良いのだろう?。単なる間違いとは思えないし・・・二の鳥居は「有明山神社」だったから聞くのも憚られたけど・・やっぱり聞けばよかったな・・
神社を後にして走る事数分、有明山通りと山麓線との交差点で見かけた「めぐり愛の岩」。傍らの碑には「神が住まう山と崇められ「あずみ野高天ヶ原伝説」の中心となった、有明山の参道に位置する一対の大岩は古くから「夫婦岩」と呼ばれて当地の人々の間で大切に祭られてきました。当地が夫婦岩とよばれる所以ともなっています。神々の住まう山とされる有明山にあった大小二つの岩は中房川の流れにその仲を割かれ、別々にいく年を経てようやく寄り添うことの出来た“めぐり愛の岩”です。「月がこの岩の上空に掛かる時、岩の前で二人の愛を誓うと、その愛は神々によって永久に守られる」「中房川の小石に二人の名前を書き、奉納すると、遠く離れていてもいつか必ずめぐり合うことが出来る」という、ロマンチックな言い伝えも生まれています。」
参拝日:2016年4月18日