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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

山田家本屋(やまだけほんや) in 山口県周南市湯野

2024年05月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

周南市湯野 慶長の頃小早川隆景に仕え、後に湯野の領主竪田元慶の家臣となった山田氏の住宅「山田家本屋(やまだけほんや)」

「山田家本屋は、慶長の頃小早川隆景に仕え、後に湯野の領主竪田元慶の家臣となった山田氏の住宅である。桁行15.76m、梁間7.85m、建坪263.76㎡、平屋建・茅葺。書院造りの中門にあたる部屋が母屋から庭に突出して建てられ、霊舎の間、局の間、奥の間、仲間部屋、化粧部屋などがあり、台所回りのムシロ天井や、中二階の隠し部屋、座敷の刀隠し、外部から開かれない回転式雨戸など、中世末の武家屋敷の趣きと、民家風の素朴な構えをもった屋敷である。建築年代ははっきりしないが、江戸時代中期頃と見られる。昭和39年(1964)に所有者から徳山市に寄付され、現在は湯野に移築復元。昭和41年(1966)6月、山口県有形文化財に指定された。」山口県の文化財より

屋内に展示されていた金彩屏風には鷹狩に使われる「鷹」六図。数ある展示の中で一番気に入ったお品です。

脇床天袋の襖絵は江戸後期の徳山藩お抱え絵師『朝倉南陵』が描いたもの。

文鎮 貝合せ 煙管 鏡・・等々

天照とあれば大神の筈ですが、これは何とお読みするのでしょうか?

茅葺屋根に、木々の紅葉はとても相性が良いのです。そうして・・近づく日暮の気配に部屋の灯りはとても温かいのです。

天狗の里:湯野の山間を照らした秋の日は、驚くほどの速さでその輝きを失っていき、まだ五時前だというのに辺りは既に日暮れ時の気配が漂い始めました。

山田家本屋のすぐ隣に、防長三名湯の一つ、湯野温泉の足湯は設置されています。今日一日は生憎の日和で、冷え切った足に何とも心地よい温かさ。屋根付きなので雨に濡れる心配もなく、ほっと一息の柔らかな時間を楽しませて頂きました。感謝🙏

訪問日:2015年11月14日

🍀明日は『児玉源太郎』陸軍大将を御祭神とする「児玉神社」の紹介です。

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ご当地マンホール in 山口県旧徳山市(周南市)

2024年05月20日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

徳山市(とくやまし)は山口県の南東部に位置した市です。防府市、下松市、新南陽市、鹿野町、徳地町、熊毛町に隣接。港湾や道路、鉄道などの恵まれた交通基盤を生かし、昭和30年代から石油化学コンビナートをはじめとする企業立地が進み、周南臨海工業地帯の中心都市として発展を続けてきました。

徳山の地名は、中世の頃に野上庄と呼ばれた地域が毛利氏に引き継がれ、慶安3年(1650)9月に『毛利就隆』が下松から住まいを移した際、当時藩政の安定していた阿波徳島と備前岡山からそれぞれ一字をとって「徳山」と改めた事にちなむと云われています。庁舎の敷地内の胸像は『野村 恒造』。徳山藩士の二男で明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員を務めた人物だそうです。「市の木:樟」「市の花:サルビア」を制定。

徳山市を説明するのに「日本の縮図」あるいは「日本の1/1000のモデル」と言う言葉があります。これは、面積が約340平方km、人口が約11万人で日本全体の約1/1000であること。山地が70%以上に対し平地はわずか7%、この7%の平地に全人口の7割が住んでいること。後背地は農山村地域で一部に過疎地があり、また離島もあること。

臨海部には原材料海外依存型の化学・石油等の工場群が立ち並んでいること。産業就業構造がほぼ同じこと。これらは、わが国の経済発展の道とほぼ同じ軌跡をたどってきたこと・・などによるものです。

明治22年(1889)、町村制の施行により都濃郡(つのぐん)徳山村・富田村・加見村・久米村・太華村・福川村・大津島村・夜市村・戸田村・湯野村・須金村・須々万村・中須村・長穂村・向道村が発足。

1900年、徳山村が町制を施行、都濃郡徳山町となる。

1912年、福川村が町制を施行、都濃郡福川町(第1次)となる。

1915年、富田村が町制を施行、都濃郡富田町となる。

1941年、富岡村が富田町に編入。

1935年、都濃郡徳山町が市制を施行、徳山市となる。

1940年、太華村が町制を施行・改称して都濃郡櫛浜町となる。

1942年、徳山市が都濃郡加見村・久米村を編入。

1944年、都濃郡櫛浜町・富田町・福川町・大津島村・夜市村・戸田村・湯野村が徳山市と合併、改めて徳山市が発足。

1949年、徳山市のうち旧村域が分立、都濃郡福川町(第2次)が発足して離脱。

1954年、都濃郡須々万村・中須村・長穂村が合併、都濃郡都濃町(第1次)が発足。

1955年、都濃町が須金村大字金峰および須万の一部と合併、改めて都濃町(第2次)が発足。

1955年、徳山市が都濃郡向道村を編入。

1962年、徳山市大字中須南字滝ノ口が下松市に編入。

1966年、徳山市が都濃町を編入。

2003年、新南陽市・鹿野町・熊毛町と合併、周南市となりました。

マンホールには全体に「市の花:サルビア」がデザインされています。

全くデザインの異なった「市の花:サルビア」のマンホール。個人的にはこちらのデザインの方が凝っていて素敵です。

「フグはえ縄漁発祥の地」である、粭(すくも)島のマンホールには「真ん丸に膨らんだ二匹のフグ」がデザインされています。

桜馬場通りのマンホールには、桜馬場にちなんで「満開の桜の木」がデザインされています。

湯野温泉地区マンホールには、「こけしのような人型と温泉マークで湯の字」がデザインされています。

1953年11月26日制定の市章は「「近代的都市として繁栄する徳山の「とく」を飛躍と向上のかたちに表現されています。」旧HPより

消火栓

仕切弁

空気弁

撮影日:2015年11月15日&2017年11月29日

🌸明日は湯野地区に残る「県指定有形文化財:山田家本屋」の紹介です。

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ご当地マンホール in 山口県周南市

2024年05月19日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

周南市(しゅうなんし)は山口県の東南部、周南地域に位置する市です。2003年4月21日、徳山市、新南陽市、熊毛町、鹿野町が新設合併し発足しました。下松市、光市、山口市、防府市、岩国市、また県を跨いで島根県吉賀町に隣接。市名の「周南」は、周防の国の南部という意味で、山口県の瀬戸内海沿岸の広い地域を指す名称として古来より使用されてきた事に因みます。

南部の瀬戸内海に面した臨海部は瀬戸内工業地域が広がり、一方北部は中国山地の一部にあたり、農村地域が点在。「市の木:クスノキ」「市の花:サルビア」を制定。

キャッチフレーズは「私たちが輝く元気発信都市・周南」

私たちが訪問した2015年&2017年、周南市のデザインマンホールはまだ存在していません。

2003年10月22日制定の市章は「周南市の「し」をモチーフに、2市2町の「し」が、海から、山から「元気発信都市」にふさわしく飛び跳ねながら、周南市の未来へ、市民一同がジャンプしているイメージで意気高らかに謳いあげています。」公式HPより

周南市健康づくり計画のイメージキャラクター『シュウタ君』。周南市役所 保険年金課に所属しているらしい・・・😐

2017年の訪問時、周南市はちょうど新庁舎の建設中。周囲は工事用シートで覆われていたのですが、ちょっと面白い物を見つけました😊 「周南市=しゅうニャンし」の語呂遊び。庁舎の受付の方とお話をした際に「滋賀県の(湖南市)には(こにゃん市)という仮想都市があって猫の市長さんがいるんですよ」と言うと、「(南)と(ニャン)の語呂遊びは、うちだけだと思ってました😆」と驚かれた事、ブログを書きながら懐かしく思い出しています。

撮影日:2015年11月16日&2017年11月29日

🌸明日は「旧徳山市」の紹介です

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防府市内~あちこちウォッチ in 山口県防府市

2024年05月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

防府市国衙に残る「周防国衛(こくが)跡」。国衙とは、律令制度下において国司が地方政務を執った役所が置かれていた場所。発掘調査によって、奈良時代から平安時代の役所が周辺一帯に広がっていたことが判明しており、一帯は現在公園として整備されています。

ここには明治の初めまで国庁寺という寺があり、境内にあった亀趺が今も残っています。「国庁が現存するのは全国でもここだけであり、それを後世に伝えるためにこの碑を建てる」の刻。

防府市宮市町の一角に残る「宮市本陣兄部家」。鎌倉時代から周防国合物商の長職だった兄部家。寛永19年(1642)に宮市本陣に定められ、西国の大名や幕府の上級役人が宿泊するようになりました。今は表門のみが残されています。

防府天満宮近くで見かけた気になる建物、でも仔細は不明💦

防府市岡村町、県立防府高等学校の敷地に見つけた「山口縣立防府高等女学校跡」の碑。

さて・・防府と言えば、山口市のブログにたびたび登場した『種田山頭火』の出身地。それに因んで市内各所に山頭火の句碑が80基以上建てられており、防府市八王子の山頭火の生家跡から小学校へ通った道は「山頭火の小径」として句碑めぐりを楽しむことができます。

生誕地跡にある句碑【 うまれた家は あとかたもない ほうほたる 】

防府市戎町、「地域交流センターアスピラート」の前に設置されていたもの、説明によれば「交流の輪」なるものらしい・・

昭和8年9月11日、山頭火が三田尻の宿に着いた日の日記に書かれた句、碑の文字は直筆を拡大したものです。

【 ふるさとや 少年の口笛と あとやさき 】

「防府駅 開業100周年記念」


防府駅前に『種田山頭火』の像と句碑

【  ふるさとの 水をのみ 水をあび  】

防府市新築地町、雨の「道の駅:潮菜市場防府」より見る「向島(錦山)と江泊山」。向島には「海賊の墓」や、龍が口を開けている様に見える「龍ヶ口」等々・・かなり気になる名所があるらしい・・

薄暗い画像で締めるのも何なので、毛利庭園の入り口付近の画像を紹介して、防府市内:アチコチウォッチは「お・し・ま・い」😊

訪問日:2013年4月17日&2015年11月14日&2017年11月30日

🌸明日からは山口県周南市の紹介です。

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三田尻塩田記念産業公園 in 山口県防府市

2024年05月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

防府市浜方、町江戸時代中期から昭和30年代まで約260年間にわたって、全国有数の塩の産地として栄えた三田尻。その塩田跡地の一角に、かつての入浜式塩田の諸施設を復元した「三田尻塩田記念産業公園」があります。

館内の常設展示室では、三田尻塩田の歴史や、製塩の様子のパネル展示のほか、製塩に使われた採かん・煎ごうなどの道具類も展示されており、時間が許せばじっくりと見て回りたい物ばかり。

再現された入浜式塩田。石川県珠洲市の「揚げ浜式塩田」とは随分と異なっています。

右奥の二人は「はなえ作業」中。「はなえ」は「しおとり」」とも呼び、「藻垂壷(もだれつぼ)」に溜めてあった、やや濃い塩水を「沼井」に注ぎ、浜溝から取水した海水を「担桶(にないおけ)」でくみ注ぎます。手前の女性は「入鍬(いれぐわ)」の作業中。地場一面の砂には潮がついており、この砂を「入鍬」でかき集め「沼井」の中に入れます。

中央に見える木製の階段状のものは「暗溝(あんこう)」。三田尻塩田独特のかん水輸送装置です。担桶にかん水を入れて、「歩み坂」を登り、上から注ぎいれます。

「濃縮台」は、「鹹水(かんすい)」「流下盤」の上を流れ、濃度を高める装置。アスファルトと小石を敷く流下盤は三田尻独特のものです。

「釜屋」で濃度の高くなった「鹹水(かんすい)」を煮詰めます。

「釜屋の煙突」は、鹹水(かんすい)を高温で長時間煮詰める為の、石造りの煙突。


高さ12.5m、頂上部周囲4.3m、内径4.343cm。塩田の歴史文化を示すシンボルタワーは、「三田尻塩田旧越中屋釜屋煙突」として2012年に登録有形文化財に指定されました。

「枡築らんかん橋」は塩田の周囲に築かれた入川(いりかわ)に架けられた石橋。塩や石炭などを積んだ上荷船が満潮時でも通行できるよう橋桁が高く作られています。

山陽自動車道下り佐波川SA展示「日本三奇矯に数えられる甲斐の猿橋を祖形にしたともいわれています。かってこの石橋に木製の欄干が取り付けられており「枡築らんかん橋」と呼ばれていました。この橋は江泊塩田に架けられていたものを移設したものです。」案内より

長州藩第7代藩主:毛利重就によって作られ、東の赤穂、西の三田尻と称されるほど製塩業で栄えた三田尻塩田。駆け足で回った30分弱の見学。実は私たちが訪問したのは閉館10分前。いくら駆け足で回っても閉館時間を過ぎてしまう・・にも拘らず、遠方からの来館と言う事で入館を許可してくださった館長のご厚意。どれほど嬉しく有難かった事か、改めて、心よりお礼申し上げます🙏

訪問日:2015年11月13日

🌸🍀明日は市内で見かけた名所、面白スポットをまとめて紹介します。

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阿弥陀寺の湯屋(ゆや) in 山口県防府市

2024年05月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

東大寺再建のための木材伐り出しに従事する人夫たちのため、重源が設けたと言われる石風呂「阿弥陀寺の湯屋」

「桟瓦葺 切妻造 平屋建の覆屋をもち、鉄湯釜で沸かした湯を石製の湯舟にくみとり、石敷の洗い場で湯を取って体を洗う方式で、洗い場は男子用、女子用で区別されている。鎌倉時代のものと伝えられる鉄湯釜(内径178㎝、深さ100㎝、高さ104㎝)と鉄湯舟(内径96㎝)も保存されており、当時からの湯屋のようすを知る上で貴重な資料なっている。文明16年(1484)、寺と共に焼失したが、江戸時代の延宝元年(1673)~天和3年(1683)年に再建され、その後、幾度か修理がなされた。現存の石湯舟の内径は、長さ128㎝、幅28㎝、深さ14㎝で、文政3年(1820)の銘文があり、鉄湯釜には文政11年(1828)の銘文がある。」山口県文化財より

画像右手の棚が設けられた場所が「脱衣場」。手前に「石敷きの洗い場」があり、二つの区切りの間に見えるのが「岩湯舟」。洗い場の上にはござが巻かれており、使用中は目隠し用として用いたものと思われます。

別の場所には「湯釜の焚口」の焚口があり、ここで「鉄湯釜」に湯を沸かします。

現地にあった説明図によれば、竈から湯を柄杓で酌んで岩湯船に流して利用したとあり、こうした方式を取湯(とりゆ)式」と呼ぶそうです。

こちらは自然石をまんじゅう型に積み重ね、表面を赤土で塗りつけた「石風呂」。昭和56年(1981)に地域の有志により鉄骨で補強され、昔の湯屋の東隣に新しく造られたました。入り口は人がしゃがんで何とか出入りできる大きさで、それほど広そうには見えません。

現在でも願掛け巡りの一つとして、月に1度だけ一般の人が利用出来るとの事。ちなみに着衣のままなので、これは今でいうところのサウナに匹敵するものらしいです。

湯谷そのものは私が側に立ってこれくらいの大きさ。ちなみに私・・大人の標準身長より、か・な・り!低いです(笑)

湯屋の左手に見えるのは阿弥陀寺の仁王門。工事中でなければ真っ先にこの湯屋を目にしたわけで、そうすれば往時の「石風呂の遺構」も見つけた筈なのに・・ちょっと(いやかなり)残念 😥

重要有形民俗文化財:阿弥陀寺の湯屋」、思いがけなく素晴らしい遺構を見せて頂き感謝です🙏

訪問日:2015年11月14日

🌸明日は「三田尻塩田記念産業公園」の紹介です。

 

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華宮山(かきゅうさん) 阿弥陀寺(あみだじ) in 山口県防府市

2024年05月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

防府市大字牟礼上坂本に門を構える東大寺別院:華厳宗「華宮山(かきゅうさん) 阿弥陀寺(あみだじ)」『阿弥陀如来』を本尊とします。

沿革「治承4年(1180)に焼失した奈良東大寺再建の大勧進『俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)』上人は、文治2年(1186)に周防国が東大寺再建の造営料国となったことから、周防国府があった防府に下向しました。阿弥陀寺は、後白河法皇の現世安穏を祈願するとともに、東大寺再建や宗教活動の拠点である7別所のひとつとして、重源上人によって文治3年(1187)に建立されました。」公式HPより

私たち以外には誰もいない、静かな参道。出迎えてくれたのは、市指定有形文化財「仁王門」。茅葺 切妻造、三間一戸の八脚門。天和5年(1685)に右田領主毛利就信によって再建。

仁王門には、快慶一派によって作られた金剛力士像があるのですが、仁王門の修復中につき、いずくかに避難中&ついでに通行禁止。😥

回り道をして参道に戻り、古道を思わせる石段を踏みしめ・・

長い石階段の先に、瓦葺 切妻造 四脚門の「中門」。建立年不明、明治4年(1871)に、国庁寺(東大寺所管)の惣門を移築したものといわれています。

境内正面に瓦葺 入母屋造の「本堂」。正面中央に唐破風向拝の入口。享保16年(1731)に毛利家一門の右田毛利家:毛利広政によって再建。画像が切れているので分かり難いのですが、右にも切妻屋根の入り口があります。

久々に迫力ある「鬼」

ここ「阿弥陀寺」は重源上人が創建した東大寺七別所の1つで、別名:アジサイの寺として知られています。「あじさい園」と書かれた入り口の向こうには、80種・約4000株のアジサイが植えられているそうで、季節には多くの人が訪れると紹介されていました。

紫陽花のレリーフが施された「あみだ橋」、その先には開山堂などの堂宇もあったらしいのですが、雨に濡れた境内散策は少々荷が重く、ここで中止。

境内から見える景色はこの上なく静謐で思わず合掌🙏

境内の一画に「霊石より影向石を望む」と有りました。中央手前の四角い小さな石が、重源上人が良く腰を掛けられたという霊石。中央の注連縄が掛けられた円錐の石が、阿弥陀如来の姿がお立ちになったという影向石と思われます🙏

社務所近くにしつらえられていた風雅な手水鉢

屋根から降ろされた飛び獅子くん、相方さんはもう居ないのだろうか?

玄関近くに置かれていた花鉢、山野草のようだけれど名前は知りません。

参拝日:2015年11月14日

🌸明日は「重要有形民俗文化財:阿弥陀寺の湯屋」の紹介です。

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tibinekoの一口メモ

「東大寺七別所」、重源上人が東大寺再建の拠点として各地に設けた寺院。

①奈良市:東大寺別所(東大寺 浄土堂)。 ②兵庫県小野市:東大寺播磨別所(浄土寺)。 ③周防市:東大寺周防別所(阿弥陀寺)。 ④三重県伊賀市:東大寺伊賀別所(新大仏寺)。 ⑤和歌山県高野さん:東大寺高野新別所(円通律寺)。
所在不明⑥東大寺渡辺別所(大阪):摂津国あたりか?。 ⑦東大寺備中別所(岡山):岡山市万富に東大寺瓦窯跡在り

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春日神社 in 山口県防府市牟礼上坂本

2024年05月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

防府市牟礼上坂本、大平山の麓に鎮座される「春日神社」。御祭神は『武甕槌命(たけみかづちのみこと)、 斎主命(いわいぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと) 、比賣神(ひめのかみ)』

「文治二年(1186)、藤原氏ゆかりの官人が周防国司として防府に下向した際、その祖神である奈良の春日大社の分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられる。その後の文治年間「重源(ちょうげん)上人」により、阿弥陀寺の建立にあたり再建したと云う。」境内案内より

涼やかな参道を真っ直ぐに進むと、正面にすっきりと美しい姿を見せる拝殿。

拝殿前左右より神域を守護されるのは「文政三年(1820)康辰春」の刻がある狛犬さん一対。断定はできませんが、尾の形や耳の形、阿形さんの口中の玉から萩狛犬かなと思われます。

更に拝殿近くには、春日神の遣いとされるブロンズ製の神鹿さん一対。台座には「文政十一年 戌子」の刻がありますが、一代目は戦時中の金属供出により消失。現在は2代目で昭和28年(1953)の奉納。

社務所内に置かれていた木彫りの鬼面。春日神社では秋の例祭「鬼まつり」が有名だとか。神社のトレードマークも「鬼」なんだそうです。

社殿の横にある「鬼面館」。飾られている鬼面は地元の方によって製作されたものだそうです。

昭和52年(1977)開所。翌年の大寒の日から寒行が始められた「禊所」。大寒の日に無病息災を祈って水中に飛び込み、「祓戸の大神」を連呼する・・と、案内に!!! 🥶

境内に残る「太鼓楼」

「御鎮座八百年記念 神徳無極 徳川宗敬刻」昭和61年(1986)に、ご鎮座800年祭が斎行。

雨に濡れた草をかき分ける根性が無かった為、内容不明の碑・二基

更にもう一基😥

「昇格記念」碑

【天に千木 芽吹の樹 声ひそめ】・・微妙に違っているかもしれません。

参拝日:2015年11月14日

🌸明日は東大寺七別所として知られる「阿弥陀寺」の紹介です。

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御神名一口メモ

「斎主命(いわいぬしのみこと)=経津主神(ふつぬしのかみ)=香取神(かとりしん)」、天孫降臨に先立って、出雲に行き、大己貴命を説いて国土を献上させた。

 

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周防国分寺(すおうこくぶんじ) in 山口県防府市国分寺町

2024年05月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

防府市国分寺町に門を構える「周防国分寺(すおうこくぶんじ)」。正式には高野山真言宗:別格本山「浄瑠璃山:国分寺」『薬師如来』を本尊とします。

天平十三年(741)、聖武天皇の勅願(詔)によって諸国に68ケ寺の国分寺が建立されました。続日本紀に「天平九年(737)、国ごとに釈迦像一躯扶侍菩薩二躯を造らせ、大般若経を写さしめ、官寺としての体制をととのえさせた」とあり、少なくとも、天平勝宝八年(756)には周防国分寺は存在していた事が記録されています。

創建当初の国分寺は、寺域二町四方、その中に、南大門・中門・回廊・金堂・講堂・七重塔などの七堂伽藍があり、本尊は「丈六の釈迦如来」。正式名称は「金光明四天王護国の寺」。境内には全国に100前後と言われる「佛足跡(ぶっそくせき)」が残されています。

県指定文化財「周防国分寺・仁王門」。三間一戸、重層、入母屋造で、屋根は本瓦葺。下層は桁行三間、梁間二間、上層は桁行三間、梁間二間。中央間は桟唐戸で、脇間の奥に仁王像を安置。文禄5年(1596)に毛利輝元が建立、ついで明和4年(1767)に毛利重就が大改修したと伝えます。

門の左右には仁王像が、また楼上には十六羅漢が安置されています。

国重要文化財「周防国分寺・金堂」。創建期の基壇上に当時の礎石を再利用して再建されたもの。長州藩第7代藩主の毛利重就によって安永4年(1775)に着工され、安永8年(1779)に上棟、天明8年(1788)頃に完成。


桁行七間、梁間四間、二重、入母屋造で、屋根は本瓦葺。四方には擬宝珠高欄を持つ切目縁を巡らし、正面・背面に唐破風造の向拝一間を付します。


金堂の裏手、天を衝く巨木の前に建立されていた古い石鳥居。

鳥居の左手に「亀趺」「水鑑の井戸」

「菅原道真公が大宰府へ下向される際に当寺に参詣され、十一代住職より受戒を受けられ、そのお礼にこの井戸でお姿を写し自画像を描き奉納されたという伝説のある古井戸です。」現地案内より

鳥居の左手に建立された「招魂碑」。案内には「禁門の変(蛤御門の変)に於いて戦死した国分寺隊の招魂碑である」の文字と戦死者四名の姓名と享年が記されています。

招魂碑の右に「弘法大師像」 

「衛門(えもん)三郎」。四国を廻るお遍路の起源と言われ、お大師様に会うため、第88番・大窪寺から「逆」に巡る「逆打ち」を編み出したと伝えられる伝説上の人物。

「子授け地蔵尊」。その昔、嫁して三年で子無きは去れと言われた時代、子供を授かるという事は、一家の跡継ぎを残すという意味でも重大なことだったのです。全国各地に祀られる「子授け・子育て地蔵」に籠められた想いが伝わってきます。

境内裏手、唐破風の堂宇は「聖天堂」。御本尊は「聖天尊(歓喜天)」

向拝蟇股の彫刻は「宝船」

「仁王門と樹齢600年の大楠」。分かり難いですが、門の左右は格式の高い五本の筋塀。(御所・門跡寺院・勅願寺院などで用いられ、皇室に対する格式を表し、その格式の高さにより三本、四本、五本があり、五本を最高とする。)案内より

参拝日:2015年11月14日&2017年11月30日

🍀明日は鬼祭りで知られる「春日神社」の紹介です。

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tibinekoさんの一口メモ

「禁門の変」、尊王攘夷論を掲げていた長州藩は文久三年(1863)八月十八日の政変で会津、薩摩両藩に京都から追放される。翌年、京都三条の池田屋事件で新撰組に藩士を殺された長州藩は、京都政局を取り戻すため、京都に向け出陣し、会津・薩摩・桑名藩と戦った。

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防府天満宮~其の六「芳松庵」 in 山口県防府市松崎町

2024年05月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

石段参道の途中、大専坊跡と向かい合う位置に建てられた「茶室・芳松(ほうしょう)庵」。菅原道真公はお茶に関する故実を調査、研究され世間に喫茶の習慣を広められ茶聖菅公と称せられました。菅公とお茶の深い関わりを後世に伝えるため、大江 宏氏の設計により、1991年に茶室芳松庵を建立。庭内の一角には勤皇の志士達が密議を交わした史跡「暁天楼」も建っています。

御祭神菅原道真の御神忌千百年式年大祭の記念事業として御祭神の茶徳を顕彰し御新徳の余恵にあずかるために建造されました。二つの季節が織りなす侘びと寂の世界・・無粋物の私たちにも心に響くものが有ります。

人の気配を察して近寄ってくる錦鯉たち。ねぇ、こんなに鯉が居たっけ?五年前には気が付かなかったね。

かってこの場所には、延喜四年(904)に国司土師信貞が「松崎の社」を創建した折、観道阿闍梨(かんどうあじゃり)を開山として草創されたと伝えられる「円楽坊」がありました。明治元年の神仏分離令に伴い、他の坊とともに廃寺となり建物も除却。明治40年に天満宮の所有となり、「松崎文庫」、維新史跡「暁天楼」を建設し現在に至っています。

芽吹きの春、敷地内はまだ若い新緑に包まれ、木漏れ日の隙間から年若い鳥の声が聞こえてきます。

維新史跡「暁天楼」

緋毛氈の床几に座って疲れた足を休める御亭主殿。壁に掛けられた勤皇の志士達はここでどんな密議を交わしたのでしょうか。高杉さん、伊藤さん・・この日本は、貴方たちが望んだ世の中になっていますか?

錦秋の「暁天楼」。隠れ部屋があったという二階は固く板戸が閉ざされ、その様子を知るすべも有りません。

降りしきる赤や黄の木の葉に彩られて、何もかもが唯々、神秘の美しさ。

【紅葉の錦 神のまにまに】と詠った菅公殿(菅原道真)。ここはまことに美しく、神の御心のまま・・・貴方様が鎮まる地です。

2015年秋・・降り続く雨は霧となって視界を遮り、木々の色を滲ませ朧に変えてゆく・・それは酷く現実離れして、目の前の全てをあやふやにしていく感覚。

唐突に目の前に現れる楠の巨木。推定樹齢800年・幹周5.6m、高さ27.5m、葉張36m。木霊を宿す防府天満宮の御神木。じっと見上げれば木精の気が体中に降り注ぐような、そんな錯覚さえ覚えます。同じ場所を三度歩いた筈なのに、この御神木に出会ったのはこの一度きりでした。

参拝日:2013年4月17日&2015年11月14日&2017年11月30日

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tibinekoさんの一口メモ

環境省の定義によれば、巨木とは地上から約130㎝の幹周が3m以上の樹木と定められています。

コメント (4)
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