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周防国分寺(すおうこくぶんじ) in 山口県防府市国分寺町

2024年05月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

防府市国分寺町に門を構える「周防国分寺(すおうこくぶんじ)」。正式には高野山真言宗:別格本山「浄瑠璃山:国分寺」『薬師如来』を本尊とします。

天平十三年(741)、聖武天皇の勅願(詔)によって諸国に68ケ寺の国分寺が建立されました。続日本紀に「天平九年(737)、国ごとに釈迦像一躯扶侍菩薩二躯を造らせ、大般若経を写さしめ、官寺としての体制をととのえさせた」とあり、少なくとも、天平勝宝八年(756)には周防国分寺は存在していた事が記録されています。

創建当初の国分寺は、寺域二町四方、その中に、南大門・中門・回廊・金堂・講堂・七重塔などの七堂伽藍があり、本尊は「丈六の釈迦如来」。正式名称は「金光明四天王護国の寺」。境内には全国に100前後と言われる「佛足跡(ぶっそくせき)」が残されています。

県指定文化財「周防国分寺・仁王門」。三間一戸、重層、入母屋造で、屋根は本瓦葺。下層は桁行三間、梁間二間、上層は桁行三間、梁間二間。中央間は桟唐戸で、脇間の奥に仁王像を安置。文禄5年(1596)に毛利輝元が建立、ついで明和4年(1767)に毛利重就が大改修したと伝えます。

門の左右には仁王像が、また楼上には十六羅漢が安置されています。

国重要文化財「周防国分寺・金堂」。創建期の基壇上に当時の礎石を再利用して再建されたもの。長州藩第7代藩主の毛利重就によって安永4年(1775)に着工され、安永8年(1779)に上棟、天明8年(1788)頃に完成。


桁行七間、梁間四間、二重、入母屋造で、屋根は本瓦葺。四方には擬宝珠高欄を持つ切目縁を巡らし、正面・背面に唐破風造の向拝一間を付します。


金堂の裏手、天を衝く巨木の前に建立されていた古い石鳥居。

鳥居の左手に「亀趺」「水鑑の井戸」

「菅原道真公が大宰府へ下向される際に当寺に参詣され、十一代住職より受戒を受けられ、そのお礼にこの井戸でお姿を写し自画像を描き奉納されたという伝説のある古井戸です。」現地案内より

鳥居の左手に建立された「招魂碑」。案内には「禁門の変(蛤御門の変)に於いて戦死した国分寺隊の招魂碑である」の文字と戦死者四名の姓名と享年が記されています。

招魂碑の右に「弘法大師像」 

「衛門(えもん)三郎」。四国を廻るお遍路の起源と言われ、お大師様に会うため、第88番・大窪寺から「逆」に巡る「逆打ち」を編み出したと伝えられる伝説上の人物。

「子授け地蔵尊」。その昔、嫁して三年で子無きは去れと言われた時代、子供を授かるという事は、一家の跡継ぎを残すという意味でも重大なことだったのです。全国各地に祀られる「子授け・子育て地蔵」に籠められた想いが伝わってきます。

境内裏手、唐破風の堂宇は「聖天堂」。御本尊は「聖天尊(歓喜天)」

向拝蟇股の彫刻は「宝船」

「仁王門と樹齢600年の大楠」。分かり難いですが、門の左右は格式の高い五本の筋塀。(御所・門跡寺院・勅願寺院などで用いられ、皇室に対する格式を表し、その格式の高さにより三本、四本、五本があり、五本を最高とする。)案内より

参拝日:2015年11月14日&2017年11月30日

🍀明日は鬼祭りで知られる「春日神社」の紹介です。

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tibinekoさんの一口メモ

「禁門の変」、尊王攘夷論を掲げていた長州藩は文久三年(1863)八月十八日の政変で会津、薩摩両藩に京都から追放される。翌年、京都三条の池田屋事件で新撰組に藩士を殺された長州藩は、京都政局を取り戻すため、京都に向け出陣し、会津・薩摩・桑名藩と戦った。

コメント (2)
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