コンスタンティン・シルヴェストリのCDを聴く。ディスク・ユニオンでシルヴェストリのボックス・セットを見つけ購入した。懐かしい指揮者だ。1969年に亡くなっている。活動期は半世紀前ということになる。
指揮者は数多くいて思い出に残る人は少ない。シルヴェストリの指揮は個性的というか、アクが強かった。強引なところがあって、全然ダメという人もいる。
最近の指揮者は、教科書的で、羽目を外すことが少ない。狭いレンジの間で解釈を競い合っている感がある。
1枚目のロシアものを聴く。
グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、ボロディンの「イゴール公」より序曲とダッタン人の踊り、それに「中央アジアの草原にて」、チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」からポロネーズ、イタリア綺想曲、序曲「1812年」が収録されている。
フォルテになると管弦楽を爆発させる。緩やかな部分になると、甘く演奏させる。甘いどころか、甘ったるい音楽になる。この辺が通俗的すぎて、まっとうな音楽評論家が評価しない所以だったのだろう。
教科書的な演奏を聞き飽きた耳には魅力的だ。
演奏家がだんだん没個性的になったのは録音技術が発達しすぎたためだと思っている。今では演奏会の隠し録音もでき、ネットに乗せることも可能である。それを考えればハチャメチャな演奏はやりにくい。
こういう情報技術の発達で、自ずと自己規制が強くなって、段々と窮屈で面白みのない社会になった。
指揮者は数多くいて思い出に残る人は少ない。シルヴェストリの指揮は個性的というか、アクが強かった。強引なところがあって、全然ダメという人もいる。
最近の指揮者は、教科書的で、羽目を外すことが少ない。狭いレンジの間で解釈を競い合っている感がある。
1枚目のロシアものを聴く。
グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、ボロディンの「イゴール公」より序曲とダッタン人の踊り、それに「中央アジアの草原にて」、チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」からポロネーズ、イタリア綺想曲、序曲「1812年」が収録されている。
フォルテになると管弦楽を爆発させる。緩やかな部分になると、甘く演奏させる。甘いどころか、甘ったるい音楽になる。この辺が通俗的すぎて、まっとうな音楽評論家が評価しない所以だったのだろう。
教科書的な演奏を聞き飽きた耳には魅力的だ。
演奏家がだんだん没個性的になったのは録音技術が発達しすぎたためだと思っている。今では演奏会の隠し録音もでき、ネットに乗せることも可能である。それを考えればハチャメチャな演奏はやりにくい。
こういう情報技術の発達で、自ずと自己規制が強くなって、段々と窮屈で面白みのない社会になった。