「正夫さん、本心からではないのですよ。
あの年頃というのはね、心持ちとは逆のことを口にしたりするものですよ」
大木さまからの優しいお声かけがありましても、俄かには信じがたいことでございます。
あの蔑みの目は、わたくしの脳裏からいまだに消えておりません。
うっすらと浮かんでいた涙とて、そこまでお嫌いなのかと情けなくさえ思えたものでございます。
いえいえなにやら言い訳じみたことばを聞かされはしました。
「申し訳ないことをしていると、こころのなかで謝っていたのです」などと。
結果、わたくしたち夫婦の家庭内別居がはじまったのでございます。
食事の支度こそしてくれますが、わたくしひとりのわびしい食卓でした。
以前もたしかにひとり食事ではございましたが、あれこれと世話を焼いてくれておりましたのに。
まあ考えてみますれば、朝を一時間ほど早めはいたしましたが。
こんなわたくしでも、妻のふくれっ面など見たくもありませんですから。
それに顔を見るとつい、「あの男が、いまでも忘れられないのでは」などなど、口に出してしまいます。
当初こそ否定していた妻ですが、ほどなく口を利かなくなりました。
はい。認めたも同然でございます。
いえじつは、認めたのでございますよ、はい。
「はいはい。そういうことにしておいてくださいな、馬鹿々々しい」
プイと横をむいて、わたくしの仕事場から出て行きましたです、はい。
店の手伝いでごさいますか? ええ、まあ、表で頑張ってはおります。
いつものようにお客さまに愛想を振りまいておりますです。
裏で仕込みをつづけるわたくしのもとにまで聞こえてまいります。
これみよがしに、わざと大声を張り上げているのでございますよ。
カラカラと大きな笑い声をあげております。
以前の小夜子お嬢さまは、コロコロと、それはもう月夜に愛でる水仙の花のように清々しいものでしたのに。
たしかに、以前も大声でした。
下町のお店でございます。コロコロといった上品な声は、たしかに似合わぬ土地柄ではございます。
その明るい声に、わたくしの疲れも吹き飛ぶというものです。
世間話のうまい妻でございまして、よくお客さまを笑わせております。
その笑い声が、お客さまに安心感を与えますようです。
「奥さんと話していると、うきよの憂さがぱあーとどこかに行ってしまうわ」
そんなおことばを、ちょくちょく頂いております。
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