長編恋愛小説 ～水たまりの中の青空・第一部～ （七）

「お待たせ。ごめんね、遅くなって」
息せき切って、貴子が飛び込んできた。
彼の前に置かれた冷水を一気に飲み干しながら、業務終了直前に持ち込まれたトラブル処理報告書の処理に時間を取られたと弁解した。

「あの井上ったら、嫌みたらしく言うのよ。
『今夜はおデートかな？　ウキウキしてるけど』って。
頭にきちゃった！　暇そうにしていた田岡さんが居るのにさ。
『忘れてたよ、ごめんね』だって。
きっと、あたしがお誘いに応じないもんだから、意地悪してるのよ。
まったくもう！」

頬をふくらませながら、貴子はなおも話を続けた。
「あなたが休んでいる時の、井上の機嫌の悪さったらなかったわ。
忙しかったせいもあるけど、結構嫌われてるの。
あなたぐらいよ、井上と気が合うのは。
憂さ晴らしに行ったお店でも、面白くないことがあったらしくって、さ。
もう最悪よ。でもね、あなたが戻ってきたせいかしら。
ご機嫌もなおりそう、助かるわ」

「えぇ？　でも、突っ慳貪だったよ。挨拶しても、鼻であしらわれたし」
「ふふふ。照れくさいのよ、きっと。
ねえ。あなた達。変な関係じゃないでしょうねえ、まさかだけど。
ふふ、冗談よ」

上目遣いに、からかうような声をかけた。
「やめてよ。僕、そんな趣味はないですよ。心外だなあ。僕は、貴子さん一途ですから」
苦笑いをしつつ、彼は貴子の目をのぞき込んだ。
貴子の反応を見たかったのだ。
好意以上の感情を持っていてくれるとは、自負していた。
しかし今ひとつ、確信が持てない彼だった。

そして又、真理子とのことが心に引っ掛かっている彼は、己に言い聞かせる意味合いもあった。
貴子は、少し顔を赤らめながら
「馬鹿ねえ、冗談だって言ってるでしょ」
と、満更でもない表情をみせた。