昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

[舟のない港](十四)

2016-03-16 09:17:39 | 小説
「いいや、いいんだ。もう慣れっこだよ」
 男は、彼自身意外な程に快活に笑った。久しぶりに屈託なく笑った。
名刺交換の折りには、怪訝そうに「何とお読みするのですか?」と聞かれる度に、コンプレックスを感じる名前が、今だけは誇らしかった。
「初めまして、平井ミドリです。いつぞやは、お電話で」
 彼女の目は笑っていた。
その人なつっこい目は、男の恋人の冷たく嘲笑するかの如き目に比べると、まさしく天使のそれだった。
 雨宿りもかねて、「コーヒーでも」ということになった。
男は、退屈な世間話など耳に入らず、兄の隣から見つめている痛い程の彼女の視線が気になった。
そしてそれが為に先程までの落ち込んだ気持ちが癒された。

 なかなか雨の止む気配はない。
平井道夫は、約束があるからと席を立った。
男も、「それじゃ」と、立ち上がりかけたが、ミドリの目が男をとらえ「まだいいんでしょう?」と語りかけている。
男は軽く会釈をすると、「それじゃ。間違いなく送っていくよ」と、言葉を添えた。

二人だけになると、途端にミドリの口が軽くなった。
男もまた、快活に笑い興じた。
兄道夫の監視が学生時代から厳しく、未だに異性の友達ができないとこぼす。
「俺が見つけてやる」の一点張りで、しかも未だに誰一人として紹介してくれないと幾度もこぼした。

「兄さんは君が好きなんだよ。大事にしてるのさ」との男の言葉に対して
「兄さんには、このあいだ恋人ができたんです。わたしだって、早く欲しいですわ」と、返した。
「今度、彼に言っておくよ。ぼくが立候補したってね」
 男の冗談めかした言葉に「えっ、」と、声を発しながらミドリはうつむいた。
「恋人がいらっしゃるんでしょう、もう」という問いに、男は笑ってごまかした。


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