「いや! やめて…」
男は、麗子の口からもれることばを塞いで強引にことをはこぼうとした。
しかし麗子は、やはり「ダメ、まだ」と拒否った。
そしてしばらくしっかりと抱き合っていた。
「おねがい、まだだめ……」
懇願する麗子の声だった。はじめて聞いたような、なみだ声だった。
しかしいまの男には聞こえていない。
見知らぬ男に……、という気持ちが消えなかった。
「つぎには、ねっ?」。懇願する声がでた。
そしてそれが引き金となり、ただただ己の欲情のままにつき進んだ。
しばし静寂のときが流れた。
男は満足感にひたりながら、腹ばいになってタバコに火をつけた。
余韻にひたっている男、そして麗子は放心状態だった。
じっと、天井を見つめている。
どれほどの時が経ったろうか、麗子の口から出たことばは、男の予期せぬものであり、しかしまた予想のできることばだった。
「わたしたち、もう一心同体ね。ねえ、浮気はダメよ。絶対よ!」
「ああ。もちろんだよ」
男は学生時代に熟読した、夏目漱石著の『行人』のなかのいち行を思い出した。
――男は征服するまでを燃え、女は征服されてから燃える――
そういった恋愛の機微がいま、男にはじめてわかった。
そしていつの間にか情がうつり、なかば諦めのこころで結婚するのかもしれない、とも思った。
しかし男はまだ若い。
共稼ぎをきらう男は、現在の収入では結婚生活はむずかしいと思っていた。
いまのように休みの日にはデートをし、外食をする。
その場も、ファミリーレストラン的な店ではなく、いちおうは名の通った店にしたい。
そしてその後にバーに行き、明日への英気を養いたい。そう思った。
毎週はムリにしても、せめて月に1回はと思う。
そして旅行――できれば、海外旅行にも出かけたい。
ムリだ、現在のふたりの収入をあわせてなんとか……、だ。
しかしそれは、男のプライドが許さない。
いやもしかすると、麗子が実家からの援助を受けたいと言い出すかもしれない。
そして子供ができたらマイホームを、とも。
もちろん、麗子を愛しているし、ともに生活をしたいとも考えていた。
が、ほんの数時間前のそれとは、明らかにちがったものだった。
結婚生活が実感としてわいてきたのだ。
夢見ごこちのそれとは、まったく異質のものだ。
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