26日(日)その2.よい子はその1から見てね。モコタロはそちらに出演しています
昨日午後7時から、サントリーホールで東京交響楽団「第682回定期演奏会」を聴きました プログラムは①ストラヴィンスキー「ハ調の交響曲」、②ベートーヴェン「交響曲 第3番 変ホ長調 作品55 ”英雄”」です この日の公演は当初①ラッヘマン「ドイツ国家を伴う舞踏組曲~弦楽四重奏とオーケストラのための」、②マーラー「交響曲第5番嬰ハ短調」の予定でしたが、新型コロナウイルスの影響で指揮者ジョナサン・ノットとロータス・クァルテットが来日出来なくなり曲目変更になったものです
この日のサントリーホールは、他の会場と違い、市松模様のために座れない席を表示してありません しかし、チケットは市松模様に座るように再指定されています 会場の入りはいつもの4分の1くらいでしょうか。昼の公演に大分流れたようです コンマスのグレヴ・二キティンはじめマスクを着用した弦楽奏者21名が登場し 配置につきます 昼に聴いたN響と比べると、いつもの東響に近い配置で、楽員間の距離は1メートルくらいではないかと思われます。N響の半分です したがってマスク着用は必須でしょう。もちろん通常通り2人で1つの楽譜を見て演奏します これが東響のソーシャルディスタンスです
1曲目はストラヴィンスキー「ハ調の交響曲」です この曲はイーゴル・ストラヴィンスキー(1882-1971)が、パリ時代とアメリカ時代の双方にまたがる作品で、1938年秋にパリで作曲が開始され、1940年夏にハリウッドのヴィヴァリーヒルズで完成されました シカゴ交響楽団の委嘱により、同楽団創立50周年を記念して作曲され、1940年11月7日、シカゴで作曲者自身の指揮シカゴ交響楽団により世界初演されました
当時のストラヴィンスキーの生活は次々と不幸が襲いかかる悲惨な時期でした 1938年には娘のリュドミラが死去、1939年3月には最初の妻カテリンが57歳で死去、さらに同年8月には母親アンナが85歳で死去しています こうした悲惨を絵に描いたような状況の中で、ストラヴィンスキーは「ハ調の交響曲」を作曲したわけですが、この曲は、作曲者の個人的な悲惨な心理的状況を全く反映せず、全体的に楽観的で明るい曲想に支配されています
第1楽章「モデラート・アラ・プレーヴェ」、第2楽章「ラルゲット・コンチェルタンテ」、第3楽章「アレグレット」、第4楽章「ラルゴ、テンポ・ジュスト・ア・ラ・プレーヴェ」の4楽章から成ります
この曲は指揮者なしで演奏されます 最初、そのニュースを東響のホームページで見た時、「えっ、ストラヴィンスキーを指揮者なしで演奏するの」とビックリしましたが、本気のようです 同じストラヴィンスキーでも変拍子に次ぐ変拍子の「春の祭典」だったらそうはいかないでしょう 演奏は、コンマスの二キティンがヴァイオリンを弾きながら、弓で各セクションに合図を出していました とても指揮者なしで演奏したとは思えない集中力に満ちた緻密な演奏でした 言うまでもなく、二キティンに一段と大きな拍手が送られました
プログラム後半はベートーヴェン「交響曲 第3番 変ホ長調 作品55 ”英雄”」です この曲はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)が1803年から1804年にかけて作曲、1804年ウィーンのロプコヴィッツ侯爵邸で私的に初演、同年アン・デア・ウィーン劇場で公開初演されました 良く知られているように、この曲は当初、共和主義の象徴であるナポレオンに献呈する予定で作曲され、手稿譜の表紙には「ボナパルト交響曲」と記されましたが、ナポレオンの皇帝就任の知らせを聞いて取り止めたと伝えられており、出版時点では「英雄交響曲 一人の偉大な人間の思い出を祝して」という標題が付されました
第1楽章「アレグロ・コン・ブリオ」、第2楽章「葬送行進曲:アダージョ・アッサイ」、第3楽章「スケルツォ:アレグロ・ヴィヴァーチェ」、第4楽章「フィナーレ:アレグロ・モルト」の4楽章から成ります
ステージの中央には、客席側に向けて1台、演奏者側の正面と左右の3方向に向けて3台の大型モニター画面が設置されています オケはモニターの左サイドの奥にコントラバス、前に左から第1ヴァイオリンとチェロが、モニターの右サイドに左からヴィオラ、第2ヴァイオリンがスタンバイします 正面にスタンバイする管楽器を含め総勢47人規模ですが、モニターを無視すれば いつもの対向配置=ノット・シフトです
モニター画面に、こちらを向いたジョナサン・ノットが映し出され、ノットのタクトで第1楽章の指揮に入ります 演奏する側から見れば、ノットの指揮する姿をモニター画面で見ながら演奏するわけですが、聴衆側から見れば、演奏者を対面で見ながら、指揮者もこちらを向いている(まるでP席で聴くよう)という一見不自然な形で向かい合うことになります 正確に言えば、聴衆はノットの後ろ姿を見るのが正しい形なのですが、ずっと画面でノットの背中を観ている訳にもいかないので、映像上はノット・グッドなのでしょう
演奏では、第2楽章「葬送行進曲」における荒絵理子のオーボエが素晴らしく、第3楽章におけるホルン3人による三重奏が冴え渡りました 全体的には、この曲でもコンマスの二キティンの貢献度が大きく、彼が実質的にオケをリードしました 聴衆側から見るとモニター画面に映し出されるノットの指揮にオケがピタリと合わせているように見えましたが、実際にはそんな単純で生易しいものではなかったようです
東京交響楽団のプログラム冊子7&8月号に「事務局長が語る 音楽監督ジョナサン・ノットとの4か月」というリポートが載っています それまで有効だったビザが一旦すべて無効になった3月16日以降、ノット氏が今回の映像出演に至るまでの経緯が書かれています。3月、ノット氏から「我々の音楽を、観客の有無に関わらず、配信であったとしても聴衆の方々に届けられる可能性が少しでもあれば、来日のために最大限の努力を惜しまない」というメールが東響事務局に届きます ここから、事務局員による大使館とのやり取りやノット氏との連絡が続けられますが、3月末に至りイギリスが入国拒否国に分類されるに至って、ノット氏も来日を断念したといいます その後、日本にも緊急事態宣言が出され、全ての公演が中止や延期に追い込まれ、事務局も休業状態になったとのことです その後、緊急事態宣言も解除されたが、今回もビザが発給されず 来日不可能となったため、7月の公演についてノット氏と相談すると、「リモート指揮による演奏」の提案があった 複数の専門業者にリサーチしたが、指揮する姿をモニターにライブで映し出し、それを見ながらオーケストラが演奏するには時差が生じてしまう それはコンマ数秒ではなく、3~5秒くらいで、これでは指揮者は実際の音を聴きながら演奏することはできないと判断した その旨をノット氏に伝えたところ、「ベートーヴェンが第九を自ら指揮した時、彼は既に耳が聞こえなかった。ブラボーの声にも気づくことなく、歌手に言われて初めて聴衆に振り返った。私はやれると思う」という とんでもない返事が返ってきた 「演奏を聴かずに指揮するのか」と驚き、慌て、少し呆れたが、苦渋の決断をし、二人のコンサートマスターに相談した 水谷氏は「指揮の映像はリハーサルでは殆ど見ないようにしたい。今回は我々だけでどこまで音楽を作れるか、良いチャンスだ 映像に合わせるリハーサルはやらない 彼のスコア(総譜)をもとに、我々で音楽作りをして、本番だけ映像を見るくらいのイメージで十分だ ノット監督は細かいところまで徹底的にリハーサルしておいて、いつも本番は全く違うことを指揮して壊しにくるではないか 空中分解するかもしれないが、ギリギリを楽しみたい。Take a risk 」との返事だった。もう一人のコンマス、二キティン氏は「これは監督がいなくても監督のコンサートだ 監督の書き込み付きのスコアを借りてほしい。すべてのリハーサルにはアドヴァイスを貰ってほしい。あとオーケストラ全員にスコアを渡しておいてほしい」との答えだった 二人とも映像を早く入手したいとは言わなかった。「賛否両論は必ずある。叩かれるかもしれない。もちろん本流ではない。でも何かが生まれるのではないかと思えてきた」と書いています。そして、最後に、5月にノット氏とあれこれとブレインストーミングをやっている時に、ノット氏から聞いたある言葉を紹介しています。それは第2次世界大戦の復興の際にチャーチルが残した次の言葉です
Never let a good crisis go to waste(良き危機を無駄にするな)
引用が長くなりましたが、この日のコンサートは、楽団員たちが単にモニター画面を見ながら演奏したわけではなく、本番に向けて指揮者ノットの書き込みスコアに基づき徹底的なリハーサルを重ねた結晶だったということです そこには少しでも本物に近い形で聴衆に音楽を届けようとする指揮者としての、そしてオーケストラとしての矜持があったのです
終演後は、演奏した楽団員とともにモニター画面上のノットにも大きな拍手が送られました オペラシティシリーズを含めた今回の東京交響楽団の「映像ノット」出演公演は、日本のオーケストラ演奏史に残る画期的な試みだったと思います
前代未聞の今回の試みを通して、音楽監督ジョナサン・ノットと東京交響楽団の面々は、今まで以上に絆を深めたのではないかと確信します