春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

長いけど・ブログ!

2016-11-19 15:40:24 | Extra
雨が一日降る事に観念してしまうと、妙に落ち着いてきて、
昨日から読んでいる、4冊の本。
1冊を完全に読んでから次の本ではなく、同時進行。
途中で淘汰される本もある。
啓蒙の類の本は、読まない。
本を読む事は、もともと好きではなく、読まなくて済めばいいと、
思っているくらいなのですが、
さび付いた頭に、「喝」を入れるためには、読書は恰好のもの、
と知っているだけに、読んでしまう。
「日陰の村」湖に沈んだ村の物語。海苔弁小説(復刻前は黒く塗られていた)
「戦いの権化・他」ロシアの美術館の一枚の絵を見て。海苔弁小説。
「道長の冒険・平安妖異伝」平岩弓枝
「ユダヤ人の家」。ディラス。

40年前に建設した空港が、さびれていく!の

ブログを読んで、感情に火がつき、手をたたいた。
あんな飛行場はいつも不便だと思う。
何が嫌かって、乗るまでが一仕事である。
金もかかる。
しかもこの空港は、若い頃のイメージが悪い。
農民の利権闘争とも揶揄され、高度成長へまっしぐらの時代。
候補地を四転五転後、
御陵牧場が在った「三里塚」「芝山」地区を最終候補としたが、
日本国政府は地元から合意を得るどころか事前説明すら怠っていた。
金銭補償や代替地等の諸準備が一切なされていなかったことから、
農民を中心とした地元住民の猛反発を招き、
敬虔なクリスチャン、戸村一作氏が活動の先方に立ち、
ベトナム戦争反対、佐藤首相への反感を持った全学連と連帯を結び、
建設阻止運動を起こした。
階級闘争至上主義の学生セクトが農民を「利権闘争」と揶揄し、
セクト間争いも活発になったり、多数の怪我人、死者も出した。

開港後も、フライトチェックを阻止する、
鉄塔を立てて壊され、
管制塔の占拠、京成電鉄の運行を止めたり、

航空局の専用ケーブルを切断したりしたが、
結局は政府の勝ち、開港した空港。
間もなく、オイルショックで、フラフラになるのだけど!

成田は、この騒動の歴史の上での飛行場。
学生は、この闘争を「利権」だけだとして、
多くが離れていったけど、「階級闘争」と「利権闘争」では、
溝が出るのは、不思議ではない。

何だっけ!そう!

羽田の海を埋めて広げたらいい、話

目が醒めますね
どうせ日本の領海は、世界六番目に大きい国。
「利権」も犠牲者も出ないだろうし・・・・                   

この万世橋の交番。             皇居前広場から皇居に向かって、石橋に                                        
関東大震災(1912)でつぶれたけど1930    設置した6基のひとつ。1887年(明治20)に
当初のデザインに復元したもの。        架けられた飾電燈。                                                
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時間ですよ!

2016-11-18 09:55:35 | Extra

足立区千住元に1929(昭和4年)営業した「子宝湯」は石川県の方で、
小林東右衛門。全部で5件を同時に経営していたといいます。
当時の建築費は2万円くらい、気に入った大工を、
子宝湯は石川県から連れてきての建築で、
4~5万円だといいますから、かなり贅沢です。
唐破風の「七福神の宝船」だけでも、2階屋が建ったといいます。
廃業、1988年。小金井市への移築は1993(平成5)年で。

銭湯のドラマは、「時間ですよ!」向田邦子さんの脚本。

1970年あたりの脚本は橋田須賀子氏ですが、
1971年からは、向田邦子が脚本メンバーに入云っているようです。
設定は、東京・湯島で銭湯「梅の湯」が舞台ですので、
「子宝湯」とは関係ありませんが、
銭湯内の風景は、ほぼこんなものです。
当時、全裸の女性が必ず出てきて、その場面待ちだけの人が沢山いました。



らのころは、駕籠の棚のほかに、ロッカーが普及していましたが、「子宝湯」
にはロッカーがないですね。



広告や映画のポスターを見ながら、体を拭くのは毎度のことで、特に、
映画のポスターは、見逃せないことでした。貴重なポスターです。

  

  

  天井は高く、「折り上げ格天井」      
  贅沢な造りだと思います。

 

番台の肘掛けに彫刻は、あまり見られなかったのではないでしょうか

    取材中、台湾で飛行機事故、空中分解ですから悲惨です。 
    51歳の若さ。
もう36年もたっているわけで、多磨霊園。

   

   

  墓碑銘は森繁久彌による「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る」。

   

タイル画は、
男湯の「義経と弁慶の五条大橋の風景」「那須与一」 

女湯は「猿蟹合戦」「雀のお宿」。
「章仙」の刻印から「九谷」のタイル絵師、石田庄太郎氏(1914年生)
東京の銭湯のタイル画の大半が石田氏といいます。

 

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あぁ~あ~ァ!

2016-11-17 16:56:46 | Extra

たいして意味はなかった!
日本酒。痛みをこらえる仲間の「悪霊?」を払うために、
仲間の孫娘と買った。
頼まれたバックを持って、病院へ。
間が悪かった!

初めて飲む銘柄、目が開きっぱなしの
仲間が「飲む」と言い出した。
孫娘に、空の湯呑みへ注がせた時、看護婦が入ってきた。
看護婦、優しい口調が、ピタリと止まると、
血相を変え、しっかりと般若の面に変わった。
私は、「運の悪さをお祓い用に飾るため」
奴は、小料理屋気分だった。
孫娘が、泣きはじめ一時、間が持てず。

遅れて病院に着いた、世間ずれ自称の彼の女房、

入室前に看護婦長から注意され、
しっかりとわたしら二人看護婦と同じように怒った。

つい言ってしまった。
「貧しいものには、パンを与えよ」
まずかった、
今度は青筋が立った。
「解釈が違います!」

孫娘の手を引いて、早々と逃避行を決め、
帰り際「おまえ、早く退院しな!」
と!

孫娘も「おまえ、早く退院しな!」
慌てた、焦った!思わず、握る手を強くした。

しかし、
病院に酒を買っていくバカも阿呆だが、
怪我をして、呑む気になった奴も、負けず劣らず阿呆!
車の中で彼女に、
「お母さんが、入院しても、お酒はダメだ、ネ!」と云ったが、
口が渇いてしまった。


公園でしばらく遊んで帰ったけど、問題は、
「お母さんに内緒!」と、言い忘れた。
が、いづれ発覚する!
何回目かの「出入り禁止令」が近づいてくる気がする。

マぁ~いいか!

   
孫のおばあちゃんは、「サザエさん」みたいな雰囲気もある。
多磨霊園では、箒を持って駈けずり廻っているのか・・
長谷川町子さん。

           

あぁ~あ~ァ!

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人ごと事ながら!

2016-11-16 20:27:48 | Extra

電話で起こされ、跳んで行ったところが、
隣町の病院。
数少ない、気が置けない仲間が、オートバイで自爆した。
本人に会えないまま、待合室で蒼くなっているけど気丈な奥さんが、
私の顔を見るなり「まったく!」と怒っている。
聞いたら、出がけに、「気を付けてね」と言ったら、
「判ってるよ、いつもうるさい!」と、
返事をした直後の事故だという。
あとで聞いたら、「猫」だか「イタチ」だか、「犬」だかが、横切って、
避けて止まったところが、土手の下だったという。
左手、左足、骨折。
顔に「ぺたり」と、ガーゼ。
旦那の姿を見て、一番驚いたのが奥さん、
本人はいたって元気だけど、
力なく、椅子に座りこんで、よたよたしてしまった。
人のケガの姿を見ると、やはり痛々しい。
まぁ~生活苦になって「大変だぁ~」ではないから、
救いだけど!
というわけで、今日はおとなしく、この辺で・・・。

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「鍵屋」 ?

2016-11-15 19:49:34 | Extra

リハビリから帰ると、意外と足が軽い。
買い物も、快調!
気晴らしのドライブでした!
でも、寒いと痛いのは、救えない!

盛岡市にも江戸時代からの商家に「鍵屋」の

屋号が、あるというコメントをいただきました。

昼に更新いたしました「鍵屋」の創始者は、
三重県伊賀上野出身で、酒の小売商を営み、
津藩藤堂家の参勤交代に伴って江戸へ、
1856年「酒問屋」を開いて、評判になります。
場所柄、上野寛永寺などもお得意様のようです。
「鍵屋」の屋号は、
1634年、荒木又右衛門が仇討ちをしたが三重県の伊賀上野
敵討ちの現場の場所が伊賀上野の鍵屋の辻」
当時もてはやされた土地名にあやかったのではないでしょうか。


因みに、「鍵屋」が移築できたのは、

三島由紀夫、川端康成などを海外向けに翻訳した、
エドワード・サイデンステッカーさん。
道路拡張の為、こよなく愛した、「鍵屋」が取り壊されるのを惜しんで、
新聞に投稿したのが取り上げられたと!

亦、1959年、江戸日本橋横山長町に花火の店を出した、
花火の今も伝えられる「鍵屋」の創始者は「鍵屋弥兵衛」ですが、
奈良県の五条市にあった花火やに奉公して、のち、
江戸で花火の元締めになった、弥兵衛が付けた、
「鍵屋」はどうして付けたかです。

鍵屋与兵衛の出身は奈良県。
伊賀上野とは70キロ位の近さですから、
噂に聞いた「鍵屋の辻」にあやかったものでは?

全国の「鍵屋」はこの仇討ちの場所「鍵屋の辻」と、
関連付けるというのは、こじ付けすぎますでしょうか。
ー酒席のお話程度にー


詳しく、お判りの方がおられましたら、是非、私にも!

 

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