児島高徳図二所物 後藤光正
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/2b/44676118a6595db95764b97882232909.jpg)
児島高徳図二所物 銘 後藤光正(花押)
後醍醐天皇が政争に敗れて隠岐に流されることとなった。これを阻止しようと暗躍した武将の一人が児島高徳である。戦場における武将としての存在感は低いものの、後醍醐天皇奪還を画策したことで広く知られている。出自は詳らかではなく、後醍醐天皇を側面から支えた修験者たちの一人ではなかったかと推測している。
後醍醐天皇が院の庄に到着したときである。高徳は夜中に天皇の寝所近くまで忍びよったものの警護が強く、奪還は難しいと感じ、今が盛りと咲き誇っている桜の幹に、古代中国の詩を書き記して天皇へのメッセージとしたのであった。翌朝、警護の武士がこの文章を見つけるも意味が分からず、一方、天皇は意味を悟って隠忍の心を固めたという。以下の詩である。『天莫空勾践 時非無范蠡』(Webで文字が表現できないかも知れない)古代中国越の国王勾践が、呉と戦って敗れたおり、范蠡という家臣が、反撃の時を見誤ることなきよう進言し、忍んだ末の十数年後にようやく復讐を果たしたことを言う。即ち、今はじっと我慢の時であると。
写真の小柄は、桜と十の文字のみを描いて児島高徳は留守模様。小柄そのものを桜の幹として捉え、わずかに花を、その下方に幹を削って十の文字を刻んだ様子を描き表わしている。笄は、険しい山中の瀧の落ちる様子で、後醍醐天皇が流された隠岐の山中の一風景ではないだろうか。朧銀地を微細な石目地とし、高彫に金銀の色絵を巧みに施している。
忠臣を題としたこの図も好まれており、目にする機会は比較的多い。作者は、後藤半左衛門家六代目の光正(みつまさ)。幕末から明治の金工で、後藤一乗に学んでいる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/06/5c8bb65483813d97b4610ca5a5656484.jpg)
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児島高徳図二所物 銘 後藤光正(花押)
後醍醐天皇が政争に敗れて隠岐に流されることとなった。これを阻止しようと暗躍した武将の一人が児島高徳である。戦場における武将としての存在感は低いものの、後醍醐天皇奪還を画策したことで広く知られている。出自は詳らかではなく、後醍醐天皇を側面から支えた修験者たちの一人ではなかったかと推測している。
後醍醐天皇が院の庄に到着したときである。高徳は夜中に天皇の寝所近くまで忍びよったものの警護が強く、奪還は難しいと感じ、今が盛りと咲き誇っている桜の幹に、古代中国の詩を書き記して天皇へのメッセージとしたのであった。翌朝、警護の武士がこの文章を見つけるも意味が分からず、一方、天皇は意味を悟って隠忍の心を固めたという。以下の詩である。『天莫空勾践 時非無范蠡』(Webで文字が表現できないかも知れない)古代中国越の国王勾践が、呉と戦って敗れたおり、范蠡という家臣が、反撃の時を見誤ることなきよう進言し、忍んだ末の十数年後にようやく復讐を果たしたことを言う。即ち、今はじっと我慢の時であると。
写真の小柄は、桜と十の文字のみを描いて児島高徳は留守模様。小柄そのものを桜の幹として捉え、わずかに花を、その下方に幹を削って十の文字を刻んだ様子を描き表わしている。笄は、険しい山中の瀧の落ちる様子で、後醍醐天皇が流された隠岐の山中の一風景ではないだろうか。朧銀地を微細な石目地とし、高彫に金銀の色絵を巧みに施している。
忠臣を題としたこの図も好まれており、目にする機会は比較的多い。作者は、後藤半左衛門家六代目の光正(みつまさ)。幕末から明治の金工で、後藤一乗に学んでいる。