波桜文図縁頭 西垣勘四郎
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波桜文図縁頭 無銘 西垣勘四郎
赤銅地に川の流れを意味する波文を施し、これを背景に桜花を流れゆく様子を文様表現した作。紅葉の川流れを『竜田川』と呼ぶのに対し、桜の名所に擬えて桜の川流れを『吉野川』と呼んでいる。なんとも雅な響きがあろうか。吉野の桜を京都嵐山に移して楽しんだ背景には、吉野への深い思いがあったからに他ならない。
肥後金工の祖とも言うべき細川三斎の美意識は、単に茶に通じていたというだけでなく、和歌、有職故実などなど深い知識と感性という下地があってのもの。作品の製作に直接携わったわけではないが、三斎の意識は肥後金工の感性と手を通じて作品とされたのである。そしてこの美意識は、後の多くの金工へと受け継がれている。
縁頭の作者である西垣勘四郎(にしがきかんしろう)の説明の前に、肥後金工全般を俯瞰してみよう。
肥後金工には平田家、志水家、西垣家、林家の四つの主流がある。平田彦三は、細川三斎が肥後国を治める以前の豊前国時代からの抱え工。平田彦三の甥が志水家(通称甚吾)の初代仁兵衛で、西垣家初代勘四郎は彦三の弟子。三斎が肥後に入る以前から肥後に居住していたのが林家初代又七。平田家は初代彦三―二代彦三(少三郎)と続くが三代目には作品がないと考えられている。西垣家は、初代勘四郎(吉弘)―二代勘四郎(吉當・永久)―三代勘四郎(吉教)―四代勘左衛門以下へと続き、初代次男(二代の弟)に勘平がいる。志水家は、初代仁兵衛―二代甚吾郎―三代甚五(永次)―四代甚吾―五代甚吾(茂永)以下へと続く。林家は、初代又七(重吉)―二代藤平(重光)―三代藤八(重吉・重房)―四代平蔵(重次)―五代又平以下へと続き、二代重光の門流に神吉家がある。神吉家は、初代正忠―二代深信―三代楽壽以下へと続く。その他、間々作品の見られる工として中根、遠山、諏訪などが挙げられ、また、剣豪宮本武蔵にも作例がある。以上、伊藤満氏の研究に従う。
さて、西垣勘四郎には鉄地を透かし彫りするものと、真鍮や素銅地を比較的量感の低い、いわゆる薄肉彫による文様表現にするものとがある。この縁頭は後者の例で、縁は真鍮地、頭は素銅地。波を背景に桜花文も薄肉彫として、縁は素銅と赤銅の色絵、頭は赤銅と金銀の色絵。肉取りとも言うべき表面の微妙な抑揚、これに加えた質朴な毛彫が活き、色絵は大らかにして、総体が渋い中に華が感じられる作風である。
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波桜文図縁頭 無銘 西垣勘四郎
赤銅地に川の流れを意味する波文を施し、これを背景に桜花を流れゆく様子を文様表現した作。紅葉の川流れを『竜田川』と呼ぶのに対し、桜の名所に擬えて桜の川流れを『吉野川』と呼んでいる。なんとも雅な響きがあろうか。吉野の桜を京都嵐山に移して楽しんだ背景には、吉野への深い思いがあったからに他ならない。
肥後金工の祖とも言うべき細川三斎の美意識は、単に茶に通じていたというだけでなく、和歌、有職故実などなど深い知識と感性という下地があってのもの。作品の製作に直接携わったわけではないが、三斎の意識は肥後金工の感性と手を通じて作品とされたのである。そしてこの美意識は、後の多くの金工へと受け継がれている。
縁頭の作者である西垣勘四郎(にしがきかんしろう)の説明の前に、肥後金工全般を俯瞰してみよう。
肥後金工には平田家、志水家、西垣家、林家の四つの主流がある。平田彦三は、細川三斎が肥後国を治める以前の豊前国時代からの抱え工。平田彦三の甥が志水家(通称甚吾)の初代仁兵衛で、西垣家初代勘四郎は彦三の弟子。三斎が肥後に入る以前から肥後に居住していたのが林家初代又七。平田家は初代彦三―二代彦三(少三郎)と続くが三代目には作品がないと考えられている。西垣家は、初代勘四郎(吉弘)―二代勘四郎(吉當・永久)―三代勘四郎(吉教)―四代勘左衛門以下へと続き、初代次男(二代の弟)に勘平がいる。志水家は、初代仁兵衛―二代甚吾郎―三代甚五(永次)―四代甚吾―五代甚吾(茂永)以下へと続く。林家は、初代又七(重吉)―二代藤平(重光)―三代藤八(重吉・重房)―四代平蔵(重次)―五代又平以下へと続き、二代重光の門流に神吉家がある。神吉家は、初代正忠―二代深信―三代楽壽以下へと続く。その他、間々作品の見られる工として中根、遠山、諏訪などが挙げられ、また、剣豪宮本武蔵にも作例がある。以上、伊藤満氏の研究に従う。
さて、西垣勘四郎には鉄地を透かし彫りするものと、真鍮や素銅地を比較的量感の低い、いわゆる薄肉彫による文様表現にするものとがある。この縁頭は後者の例で、縁は真鍮地、頭は素銅地。波を背景に桜花文も薄肉彫として、縁は素銅と赤銅の色絵、頭は赤銅と金銀の色絵。肉取りとも言うべき表面の微妙な抑揚、これに加えた質朴な毛彫が活き、色絵は大らかにして、総体が渋い中に華が感じられる作風である。