花筏図鐔 京正阿弥
花筏図鐔 無銘京正阿弥
真鍮地を地荒しにして渋い色調を生み出し、洒落た文様表現とした鐔。地金に古典的な風合いがあり、桃山頃か江戸時代初期の作と鑑られる。川の流れに桜が散り掛かるという雅な文様で、筏と、川の所々に据え置かれた蛇籠を文様化した、花筏文の一つ。
嵐山の下を流れ下った大堰川は、渡月橋を経て桂川と呼ばれるが、古くはその途中の松尾大社の辺りでは松尾川と呼ばれており、川そのものが風雅な存在として京に住む人々の意識の中に備わっていたのであろう。
色合いに変化のある真鍮地は渋く、川の流れは黒化した銀で、これに金の色を鮮やかに配して印象付けている。金色絵とされた表面にも毛彫が施されており、ここに古色が付いて金の色も平坦にならず味わい格別のものがある。左右に大きく透かされているのは大小の菱を重ねた松皮菱の家紋を意匠したもの。
正阿弥は金工流派としては古く、文化と政治の中心である京都に興ったと推て良いだろう。後に各地に移住して地域の文化を受け入れ、特色のある作品を生み出している。その、京都において伝統を守り続けたのが京正阿弥である。阿弥の呼称があるように、元来は将軍近傍にて文化的な補佐をした同朋衆の流れであろうか、あるいは阿弥衆を自称したものか、この点は未詳である。
花筏図鐔 無銘京正阿弥
真鍮地を地荒しにして渋い色調を生み出し、洒落た文様表現とした鐔。地金に古典的な風合いがあり、桃山頃か江戸時代初期の作と鑑られる。川の流れに桜が散り掛かるという雅な文様で、筏と、川の所々に据え置かれた蛇籠を文様化した、花筏文の一つ。
嵐山の下を流れ下った大堰川は、渡月橋を経て桂川と呼ばれるが、古くはその途中の松尾大社の辺りでは松尾川と呼ばれており、川そのものが風雅な存在として京に住む人々の意識の中に備わっていたのであろう。
色合いに変化のある真鍮地は渋く、川の流れは黒化した銀で、これに金の色を鮮やかに配して印象付けている。金色絵とされた表面にも毛彫が施されており、ここに古色が付いて金の色も平坦にならず味わい格別のものがある。左右に大きく透かされているのは大小の菱を重ねた松皮菱の家紋を意匠したもの。
正阿弥は金工流派としては古く、文化と政治の中心である京都に興ったと推て良いだろう。後に各地に移住して地域の文化を受け入れ、特色のある作品を生み出している。その、京都において伝統を守り続けたのが京正阿弥である。阿弥の呼称があるように、元来は将軍近傍にて文化的な補佐をした同朋衆の流れであろうか、あるいは阿弥衆を自称したものか、この点は未詳である。