猛禽図鐔 初代甚吾
猛禽図鐔 無銘甚吾(初代)
甚吾の存在感を鮮明にする鐔である。この迫力は他の金工誰にも真似ができないであろう。後の甚吾あるいは肥後金工が再現に挑んでいるが、この作品に近づくことすらできていないのが現実である。筆者はこの鐔を直接手にとる機会を得た際、感動で涙を落としそうになってしまった。鐔という機能を無視するかのような大胆で素朴な意匠、真鍮という素材も金のような鮮やかさや洗練味、一般的な美しさに通じる要素はないのだが、力強いだけでなく確かに美しいのである。掌にずっしりと伝わる重みは肉厚の理由だけでなく、鍛え叩いた鎚の痕跡、堅く締められた肌の質感、ここに象嵌された真鍮の塊、その表面に切りつけられた飾り気のない鏨の痕跡、さらに微妙な抑揚をもって高彫された図像の表面に施された漆による表情。ひとつずつ挙げて説明するこのと愚かさを感じるほどである。
以下、古美術雑誌『目の眼』にこの鐔を紹介した際の駄文をそのまま掲載する。紹介記事を書いた際に作品を冷静に説明しようとしている筆者の様子がよく分かる。
想像上の鳳凰にはじまり、鶴・鷺・鷹・梟・雀・鶏など様々な鳥類が、古くから装剣小道具の装飾題材に採られている。神格化された鳥を描き表わすことによって、その霊力を自らのものにしたいとの願いがあったのであろう、鳳凰や鶴の図はその典型である。
このような自然神としての意味がある鳥とは趣を異にする、自然風景の鳥類を題にして作品を製作した金工では、『装剣小道具の世界25 (目の眼)』において紹介した江戸時代後期の石黒政常が著名。石黒一門は赤銅地を精巧な高彫とし、金・銀・素銅・朧銀といった様々な色金を用い、現実を超越した感のある猛禽図の細密表現を得意としていた。
ところが肥後金工志水甚五(生年不詳~一六七五)は、石黒政常と同じ猛禽に取材しながら、華やかさや精密さを極力抑えて独創の世界を表現した。
肥後金工とは、林又七や平田彦三のように、千利休の茶を受け継いだ肥後細川三斎忠興(一五六三~一六四五)の美意識を、文様として、あるいは心象的に表現した金工。甚五はこの平田彦三に学んで影響を受けた一人であった。
図柄はここに紹介した猛禽のほか、梟と鶏の図が多く、同趣の図柄の作品がいくつか遺されている。
さて、利休に始まる茶の美とは、秀吉の好んだ黄金に例をみる非日常美の発見ではなく、ごくありふれた光景に美観の要素を求め、これを以て客をもてなすという心の中にあった。
茶が精神性を離れて茶道へと先鋭化したのは、利休の弟子の働きに因る。その一例が細川三斎の美学。又七や彦三は文様や具象として茶を表現したが、それは後の形式化された茶道に似ており、この甚五に至ってようやく、禅をそのままに生きるかのような、自然な状態を尊ぶ美観が実現された感がある。
ここに紹介する鐔がその標本。泥障形に造り込んだ鉄地の表面に槌目を残しているのは、深山に立ち込める霧か雲か、その濃密な空気の動きを意図したものであろう。一転して裏面は、同じ槌目地ながら瀧の落ちる峡谷の岩肌を思わせる、力強い動きが感じられる地模様。岩塊は特徴的な鋤彫による薄肉彫ながら立体感に溢れ、岩を打ち付ける瀧の水にも激しい動きが感じ取れる。これらを背景に、表裏にわたって柏の枝葉を毛彫に銀布目象嵌で表わし、太い枝に爪を突き立てて前方を睨む猛禽を真鍮高彫象嵌で表わしている。
銅と亜鉛の合金である真鍮は、時に多くの異金属を含むため、表面に微細な叢模様が現われることがある。銀は表面が酸化して紫がかった黒色となる。甚五は、この変色を考慮し、敢えて渋い色調の金属を用いているのである。
真鍮地金の表面には毛彫を加えて羽根の表情と羽毛を描き表わし、さらに黒漆を塗り施しており、その色合いも叢立つ真鍮の地肌と影響し合い、意図せぬ表情を生じさせている。
甚五の特徴的な点は、真実の光景を写し取ろうとしているのではないところにある。主題をあらゆる角度から観察しながらも特徴を写実表現するのではなく、心に写ったであろうその光景を、つまり心象風景を一旦解きほぐし、再度鐔の上に構築しているのである。
嘴が異様に太く鋭く、羽根は鎧のようにがっしりと身を包み、脚の筋肉太く爪は鋭く、各部を観察すると、決して生き物のそれではない。異様な猛禽図であるが誇張も感じられない。それでいて自然の生命を感じるのである。
猛禽図鐔 無銘甚吾(初代)
甚吾の存在感を鮮明にする鐔である。この迫力は他の金工誰にも真似ができないであろう。後の甚吾あるいは肥後金工が再現に挑んでいるが、この作品に近づくことすらできていないのが現実である。筆者はこの鐔を直接手にとる機会を得た際、感動で涙を落としそうになってしまった。鐔という機能を無視するかのような大胆で素朴な意匠、真鍮という素材も金のような鮮やかさや洗練味、一般的な美しさに通じる要素はないのだが、力強いだけでなく確かに美しいのである。掌にずっしりと伝わる重みは肉厚の理由だけでなく、鍛え叩いた鎚の痕跡、堅く締められた肌の質感、ここに象嵌された真鍮の塊、その表面に切りつけられた飾り気のない鏨の痕跡、さらに微妙な抑揚をもって高彫された図像の表面に施された漆による表情。ひとつずつ挙げて説明するこのと愚かさを感じるほどである。
以下、古美術雑誌『目の眼』にこの鐔を紹介した際の駄文をそのまま掲載する。紹介記事を書いた際に作品を冷静に説明しようとしている筆者の様子がよく分かる。
想像上の鳳凰にはじまり、鶴・鷺・鷹・梟・雀・鶏など様々な鳥類が、古くから装剣小道具の装飾題材に採られている。神格化された鳥を描き表わすことによって、その霊力を自らのものにしたいとの願いがあったのであろう、鳳凰や鶴の図はその典型である。
このような自然神としての意味がある鳥とは趣を異にする、自然風景の鳥類を題にして作品を製作した金工では、『装剣小道具の世界25 (目の眼)』において紹介した江戸時代後期の石黒政常が著名。石黒一門は赤銅地を精巧な高彫とし、金・銀・素銅・朧銀といった様々な色金を用い、現実を超越した感のある猛禽図の細密表現を得意としていた。
ところが肥後金工志水甚五(生年不詳~一六七五)は、石黒政常と同じ猛禽に取材しながら、華やかさや精密さを極力抑えて独創の世界を表現した。
肥後金工とは、林又七や平田彦三のように、千利休の茶を受け継いだ肥後細川三斎忠興(一五六三~一六四五)の美意識を、文様として、あるいは心象的に表現した金工。甚五はこの平田彦三に学んで影響を受けた一人であった。
図柄はここに紹介した猛禽のほか、梟と鶏の図が多く、同趣の図柄の作品がいくつか遺されている。
さて、利休に始まる茶の美とは、秀吉の好んだ黄金に例をみる非日常美の発見ではなく、ごくありふれた光景に美観の要素を求め、これを以て客をもてなすという心の中にあった。
茶が精神性を離れて茶道へと先鋭化したのは、利休の弟子の働きに因る。その一例が細川三斎の美学。又七や彦三は文様や具象として茶を表現したが、それは後の形式化された茶道に似ており、この甚五に至ってようやく、禅をそのままに生きるかのような、自然な状態を尊ぶ美観が実現された感がある。
ここに紹介する鐔がその標本。泥障形に造り込んだ鉄地の表面に槌目を残しているのは、深山に立ち込める霧か雲か、その濃密な空気の動きを意図したものであろう。一転して裏面は、同じ槌目地ながら瀧の落ちる峡谷の岩肌を思わせる、力強い動きが感じられる地模様。岩塊は特徴的な鋤彫による薄肉彫ながら立体感に溢れ、岩を打ち付ける瀧の水にも激しい動きが感じ取れる。これらを背景に、表裏にわたって柏の枝葉を毛彫に銀布目象嵌で表わし、太い枝に爪を突き立てて前方を睨む猛禽を真鍮高彫象嵌で表わしている。
銅と亜鉛の合金である真鍮は、時に多くの異金属を含むため、表面に微細な叢模様が現われることがある。銀は表面が酸化して紫がかった黒色となる。甚五は、この変色を考慮し、敢えて渋い色調の金属を用いているのである。
真鍮地金の表面には毛彫を加えて羽根の表情と羽毛を描き表わし、さらに黒漆を塗り施しており、その色合いも叢立つ真鍮の地肌と影響し合い、意図せぬ表情を生じさせている。
甚五の特徴的な点は、真実の光景を写し取ろうとしているのではないところにある。主題をあらゆる角度から観察しながらも特徴を写実表現するのではなく、心に写ったであろうその光景を、つまり心象風景を一旦解きほぐし、再度鐔の上に構築しているのである。
嘴が異様に太く鋭く、羽根は鎧のようにがっしりと身を包み、脚の筋肉太く爪は鋭く、各部を観察すると、決して生き物のそれではない。異様な猛禽図であるが誇張も感じられない。それでいて自然の生命を感じるのである。