鐔鑑賞記 by Zenzai

鍔や小柄など刀装小道具の作風・デザインを鑑賞記録

鉢ノ木透図鐔 西垣・忠重

2010-04-16 | 
鉢ノ木透図鐔 西垣

 
① 鉢ノ木透図鐔 無銘西垣

 
② 鉢ノ木透図鐔 銘 忠重

 松、梅、桜、これに雪を添えて『鉢ノ木』と呼び慣わしている。謎掛けのようなものだが、答えはいたって簡単。謡曲に、松、梅、桜、そして雪が重要な役割を成す題がある。
 話は鎌倉時代の執権北条時頼の伝説である。時頼が僧の姿で諸国を経巡って庶民の生活を探っていたときのこと。下野國佐野の辺りで雪に降り込まれ、ようやく一軒の粗末な家を見つけて安堵した。ところが貧しいその家では、僧に与える暖かい食べ物もない。主は考えた末、自らが大切に育てていた鉢植えの松樹、梅樹、桜樹を切って薪とし、暖をとってこれを僧へのもてなしとしたのであった。その後鎌倉に帰国した時頼が、諸国の兵を集めるべく令を発した時のことである。貧相な鎧に身を包みながらも真っ先に到着したのが、先の下野で世話になった男。これが佐野源左衛門常世であった。常世が貧しくしていたのは同族に土地を横領されていたためで、貧しいながらも誠意あるこの常世に武士の本質を感じた時頼は、横領されていた佐野の土地を戻し、さらに松、梅、桜に擬え、上野国松井田、加賀国梅田、越中国桜井の庄を与えたという。鎌倉時代の武士の規範は時とともに崩れはじめており、後には否応無しに南北朝時代の争乱へと混乱して行くのだが、常世の姿はこれと逆行する、まさに武家の鑑たるもの。安定を望んだ江戸時代に好まれた話である。
 さて、Photo①の鐔は鉄地を陰陽に透かし、松、梅、桜は良く分かるのだが、雪はというと、耳の構成線と歪んだ櫃穴の形で表している。個銘までは極められないが、わずかにゆがみの感じられる丸形、鉄地に鎚の痕跡を残して抑揚のある肌としているところなどから西垣派と極められている。同様の図のPhoto②は江戸時代中頃の江戸の赤坂忠重(ただしげ)の鐔。同じ鉄地を用い、陰陽の透かしで、松、梅、桜、そしてこれも、耳の形と櫃穴を雪輪状に仕立てて雪を表現している。いずれも鉄色黒く、素材の魅力横溢の作品である。赤坂派と肥後金工とは互いに感性を学び合っていると考えられる。殊に忠重には、西垣に見紛う作品がある。

桜花紋九曜紋図鐔 神吉

2010-04-15 | 
桜花紋九曜紋図鐔 神吉

 
① 桜花紋九曜紋図鐔 無銘神吉

 
② 桜花紋桐紋透図鐔 無銘神吉

 細川家が用いた家紋を意匠したのがこのお多福形に造り込んだ鐔(Photo①)。櫃穴が擬宝珠状に左右に尖っており、下方には腕抜緒の穴が設けられ、何とも飄逸味のある陰影とされている。ところがここに施されている文様は、肥後金工に特徴的な二重唐草文で装われた桜花紋と九曜紋。林の流れを汲む神吉派では、林の創案した二重唐草の華麗な文様を巧みに取り入れて新趣の鐔を製作している。林又七の枯れた風合いの地鉄に比較して神吉や後代の林の地鉄は精緻な素材を用いて新鮮味がある。ここが大きな特徴である。
 Photo②の鐔も神吉派の作例で、鉄地一色にして他の金属を用いていないが、新味のある鉄の肌合いは特徴的。武家の象徴でもある桐紋と桜花紋を陰陽に組み合わせて地透とした作品。桐は肥後鐔の特徴的な投桐ではなく桐紋くずし。空間構成が巧みである。

桜花文唐草文図鐔 西垣

2010-04-15 | 
桜花文唐草文図鐔 西垣

 
① 桜花文唐草文図鐔 無銘西垣

 
② 桜花文桐唐草文図鐔 無銘西垣

 真鍮地に薄肉彫で桜花と唐草文を濃密に配した図。①は土手耳に仕立て、桜花は、家紋とは風合いを異にする文様表現。②は、お多福木瓜形の平滑な地面に、これも薄肉彫になる桐唐草と桜花文を散し配した作。時を重ねた真鍮地は錆が生じて渋い色調を呈し、殊に鋤き込んだ凹部に錆が溜まって意図せぬ風合いとなる。この渋さが侘茶に通ずると捉えられたものであろう、確かに渋いだけではない魅力が感じられる。肥後金工の中でも、西垣や林の作品には華が感じとれるものが多い。華とは言え、決して美しい花が描かれているという意味ではない。華々しいという意味でもない。特に①は手垢や錆で汚れているようにも見えるが、これを汚いと感じるか、美しいと感じるか。華とは何なのかと問われても、感じとって欲しいと言わざるを得ない。それが肥後金工の魅力。殊に真鍮地に微妙な抑揚変化のある肌合いを映し出して文様とする手法は、平田や西垣の得意とするところである。

波桜文図縁頭 西垣勘四郎

2010-04-14 | その他
波桜文図縁頭 西垣勘四郎

 
波桜文図縁頭 無銘 西垣勘四郎

 赤銅地に川の流れを意味する波文を施し、これを背景に桜花を流れゆく様子を文様表現した作。紅葉の川流れを『竜田川』と呼ぶのに対し、桜の名所に擬えて桜の川流れを『吉野川』と呼んでいる。なんとも雅な響きがあろうか。吉野の桜を京都嵐山に移して楽しんだ背景には、吉野への深い思いがあったからに他ならない。
 肥後金工の祖とも言うべき細川三斎の美意識は、単に茶に通じていたというだけでなく、和歌、有職故実などなど深い知識と感性という下地があってのもの。作品の製作に直接携わったわけではないが、三斎の意識は肥後金工の感性と手を通じて作品とされたのである。そしてこの美意識は、後の多くの金工へと受け継がれている。
 縁頭の作者である西垣勘四郎(にしがきかんしろう)の説明の前に、肥後金工全般を俯瞰してみよう。
 肥後金工には平田家、志水家、西垣家、林家の四つの主流がある。平田彦三は、細川三斎が肥後国を治める以前の豊前国時代からの抱え工。平田彦三の甥が志水家(通称甚吾)の初代仁兵衛で、西垣家初代勘四郎は彦三の弟子。三斎が肥後に入る以前から肥後に居住していたのが林家初代又七。平田家は初代彦三―二代彦三(少三郎)と続くが三代目には作品がないと考えられている。西垣家は、初代勘四郎(吉弘)―二代勘四郎(吉當・永久)―三代勘四郎(吉教)―四代勘左衛門以下へと続き、初代次男(二代の弟)に勘平がいる。志水家は、初代仁兵衛―二代甚吾郎―三代甚五(永次)―四代甚吾―五代甚吾(茂永)以下へと続く。林家は、初代又七(重吉)―二代藤平(重光)―三代藤八(重吉・重房)―四代平蔵(重次)―五代又平以下へと続き、二代重光の門流に神吉家がある。神吉家は、初代正忠―二代深信―三代楽壽以下へと続く。その他、間々作品の見られる工として中根、遠山、諏訪などが挙げられ、また、剣豪宮本武蔵にも作例がある。以上、伊藤満氏の研究に従う。
 さて、西垣勘四郎には鉄地を透かし彫りするものと、真鍮や素銅地を比較的量感の低い、いわゆる薄肉彫による文様表現にするものとがある。この縁頭は後者の例で、縁は真鍮地、頭は素銅地。波を背景に桜花文も薄肉彫として、縁は素銅と赤銅の色絵、頭は赤銅と金銀の色絵。肉取りとも言うべき表面の微妙な抑揚、これに加えた質朴な毛彫が活き、色絵は大らかにして、総体が渋い中に華が感じられる作風である。

霞桜透図鐔 林

2010-04-13 | 
霞桜透図鐔 林

 
① 霞桜透図鐔 銘 林(又平)


② 霞桜透図鐔 無銘神吉

 
③ 霞桜透図鐔 無銘肥後

 舞い散る花びら、その花吹雪の中に立って桜樹を仰ぎ見るような印象のある鐔。鑑賞者に覆い被さるかのように、鐔全面を使って多重に桜花を意匠している。三作品を紹介するが、いずれも同じ趣で、違いは金の象嵌の有無あるいはその配分の程度。肥後金工の特性が良く示されている。
 肥後金工の作風の背景には、利休に茶を学んだ細川三斎の美意識がある。また、細川家の家紋の一つが桜花紋であるため、桜花図は肥後金工に比較的多い。鉄地や真鍮地など渋い味わいのある地金を下地に用い、その表面に自然に生じた錆の色を作品に活かしているところに特徴がある。
 細川家は三河国細川荘を本拠とした古い家柄で、南北朝時代以降に隆盛した大名家。代々管領として将軍の補佐をし、阿波、讃岐、伊予、淡路、摂津、丹波、和泉、備中、備後などの守護を務めている。戦国時代には勢力も低下したが、和泉細川家の藤孝とその子の忠興が織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えて御家を再興させた。この細川忠興の号が三斎。三斎は利休に学んだ茶のみならず、有職故実、和歌、朱子学なども修めた教養の高い学者であり芸術家であった。
 さて、この鐔の造り込みを菊花丸形としているのは重なり合う桜花を捉えたもの。猪目(ハート形)を組み合わせて桜花を天地左右非対称に配し、花房の中央には花蕊とも八重の桜とも見える小さな五葉の花弁を構成し、桜花の周囲には毛彫あるいは金の線象嵌で線刻を施している。四方に小さな猪目を透かしているのは散りかかる花であろうか。金線象嵌を加えた作では、さらに葛菱と呼ばれる文様を散し配して霞のかかる様子あるいは桜の香りが漂う様を心象的に表現している。さらにこれを繋ぐように幅の狭い筋状の透かしを切り施しており、この線によって円周方向に動きが感じられる。
 Photo①は江戸中期の林(又平)の在銘、Photo②は江戸後期の神吉と極められた作、Photo③も江戸後期も肥後極め。

枝垂桜図鐔 正充

2010-04-12 | 
枝垂桜図鐔 正充

 
枝垂桜図鐔 銘 山陰鳥取城下正充(花押)

 春霞を意図したものであろうか鉄地に鍛え肌を鮮明に浮かび上がらせ、これを背景に枝垂れ桜を描いた鐔。鍛え肌が気流のように感じられ、これになびくように桜の枝花が流れている。美しい構成である。鍛え肌を現わすには、鍛え合わせた鉄地を熱した後に酸に浸け込むことによって表面を腐食させる。これにより鉄質の微妙に異なる肌合いが露呈するのである。正充(まさみつ)は鳥取藩のお抱え金工。

桜花文図鐔 政富

2010-04-12 | 
桜花文図鐔 政富

 
桜花文図鐔 銘 長州萩住政富作

 長州鐔工の特徴の一つに、正確な構成と精密な彫刻によって写実表現された植物図がある。武州伊藤派の表現を手本としたもので、伊藤派とは交流があり、長州鐔工が江戸であるいは逆に伊藤派の工が長門国で製作した例もある。岡田政富(まさとみ)は文化頃を活躍期とする長州藩のお抱え鐔工。
 長州鐔工には、植物が現実に生えているような写実的作風の他、この鐔のような文様表現もある。この鐔では耳際に唐草文を廻らし、切羽台辺りに桜花を押し合うように高彫で配している。唐草文は繊細、花は妖艶な趣。

桜楓図揃金具

2010-04-12 | 小柄
桜楓図揃金具


桜楓図揃金具 無銘

 秋に咲く桜もあるようで、筆者が度々散策する鎌倉の報国寺には、かつて春と秋に二度咲く十月桜があったのだが、最近はどうしたものだろうか。桜と楓の取り合わせの背景には、このような秋に花開く桜を美観として捉える意識があってのものであろうとは思われない。異質であるはずの春秋の巡り合いにこそ美が生まれる。類似の文様に、楓に川の流れを添えて『竜田川』、桜に川を組み合わせて『吉野川』と呼び慣わしている。この揃金具では、川の流れは描かれていない。赤銅磨地を高彫とし、背後に金の真砂象嵌を散し、金銀素銅の色絵を加えている。この作は縁頭鐺などの揃い物で、拵として伝えられた。その内の二点。江戸時代後期。

花籠図小柄 加賀後藤

2010-04-11 | 小柄
花籠図小柄 加賀後藤


① 花籠図小柄 無銘加賀後藤


② 花車図小柄笄 無銘後藤

 何と優雅な空間であろうか、生け花に独創が求められた時代背景を感じとることが出来る、江戸時代前期から中期の加賀後藤の作と極められる作品。横長の構造を生かして左右に広がる桜の枝を配し、微妙に均衡をくずして動きのある画面を創出している。②の二所も同様に桜を飾りとして捉えた花車で、これを装剣小道具として再構成した作品。

蜆に桜図小柄 壽景

2010-04-10 | 小柄
蜆に桜図小柄 壽景



蜆に桜図小柄 銘 壽景安政乙卯中秋鐫之

 手折られた桜が流れている。その水中にひっそりと息づく蜆。東龍斎派の名工壽景(としかげ)の手になる、春の暖かい空気が感じられる美しい作品。肩の力を抜いて水辺に佇み、光を受けて輝く小川をただ眺めている…そんな時間が楽しい。
 色合い黒い朧銀地に蜆は高彫赤銅色絵。水の流れは片切彫、水底は金の真砂象嵌。裏板は明るい朧銀地で、金銀の平象嵌に片切彫。

花喰鳥図目貫 菊岡

2010-04-10 | 目貫
花喰鳥図目貫 菊岡


花喰鳥図目貫 無銘菊岡

金無垢地を容彫とした美しい目貫。花喰鳥(はなくいどり)とは、遠く古代ペルシャ辺りを起源とし、シルクロードを経て我が国に至った文様の一つと考えられており、我が国では異国風とせず、鶴に松をくわえさせた図を間々見ることがある。この目貫では、雌雄の瑞鳥に花は桜。長い尾羽根を風に揺らしながら飛翔する様子は古代の鳳凰など霊鳥文様を手本にしたもので、シルクロードの香りが充満している。洒落た図柄で、横谷家門流の柳川家に学んだ光行を初代とする菊岡家の作と極められる。江戸時代後期。

桜に雉子図笄 石黒光明

2010-04-10 | その他
桜に雉子図笄 石黒光明



桜に雉子図笄 銘 石黒光明(花押)

 花鳥図を得意とした石黒派初代政常の高弟政明の門人光明(みつあき)の、この一派らしい画題を巧みに高彫色絵表現した笄。石黒派の特徴は、綺麗に揃った赤銅魚子地を背景に、精巧緻密な鏨使いによる高彫表現で、これに金銀の色絵を多用して華麗でしかも繊細な画面を創出しているところにある。
 雉子と桜の取り合わせは古歌にあり、ここでも藤原定家の自選全歌集『拾遺愚草』の『詠花鳥和歌各十二首』に題を得た、堀江興成作花鳥十二ヶ月図揃小柄を紹介している。光明の小柄では雛鳥を添え描いており、定家の歌の意味とは風合いを異にする趣向。
 装剣小道具において桜を描く場合、花の咲き始め頃、あるいは満開のそれを取材しており、はらはらと散る様子は花筏文以外には多くは見られない。死に通ずる散ることへの忌避があってのことであろうか。ところがこの笄では花の散り掛かる様子が美しく表現されている。現実の桜樹の前に佇んでみても、舞い落ちる花びらには、潔く死を選ぶという意味合いとは別の美しさが感じられよう。江戸時代後期から明治時代初期の作品。

猿猴図鐔 古正阿弥

2010-04-09 | 
猿猴図鐔 古正阿弥

 
猿猴図鐔 無銘古正阿弥

 時代の上がる鐔の風景図で古拙な趣が漂い、それが故に面白味となっている作。春秋風景を題に得た図で、片面は満開の桜樹に親子猿、もう一面は水辺に鷺。時代は桃山頃であろうか、あるいはもう少し上がる可能性もある。時代の上がる正阿弥(しょうあみ)の、絵画風の作品の初期のものと考えてよいだろう。
 真鍮地の耳を厚く丸みを持たせた木瓜形とし、左右の櫃穴を同じ形にしているのは表裏を考えない古い形式。平滑に仕立てた鐔面を高彫にして金銀赤銅の色絵を加えている。芦に鷺は水墨画から得た図であることは明白。一方の桜樹に猿猴は水墨画にありそうもない図であり、ここに金工の個性とも言いうる感性が覗いとれる。このような水墨画調の作品が後の奈良派などに影響を与えたものであろうと想像され、金工史の上でも興味が一入である。もちろん作品そのものも、見ているだけで楽しく面白い。

猿猴図鐔 壽次

2010-04-08 | 
猿猴図鐔 壽次

 
猿猴図鐔 銘 壽次

 東龍斎(とうりゅうさい)派の作品には独特の風合いがある。桜に関わる図では壽矩の桜に雪華図鐔を紹介した。比較して鑑賞すると、地造りや構成、耳の仕立てなどに流派の特色が良く分かると思う。その東龍斎派の壽次(としつぐ)の、猿猴図鐔である。深山幽谷の趣のある画面ながら、遠い月に桜の花をささげている猿猴の姿が美しくも愛らしい。桜を持たせることで擬人化したわけではなく、明らかに猿が人と同じ感情を抱いているであろうという視点で作品化したもの。
 鉄地を鋤き下げ、耳を二重に仕立てて洞窟あるいは雲間から眺めているような構成とし、高彫に金銀朧銀の象嵌を加えた手法。再度言うが、何とも愛らしい作品である。江戸時代後期。

猿猴に馬図鐔 後藤

2010-04-08 | 
猿猴に馬図鐔 後藤


猿猴に馬図鐔 無銘後藤

 古く、厩(うまや)では猿を飼うを常としていた。伝承では猿が馬の病魔を救うとも、馬の病いを猿の病変によって逸早く知るとも言われている。一方の猿にとっては、人と動物の間にあって、現代でいうならスピリチュアなる存在感を示していたともいえようか。犬猿の仲とは逆に、猿と馬は仲の良い間がらと捉えられていたようで、装剣具の図には間々みられる。
 この鐔では、猿が御幣を手にしていることから、日吉神社の使いとされている猿による祓えの意味があろうかと思われる。馬は美しく飾られていることから、何らかの儀式が始まるのであろう、落ち着かぬ馬の気を静めるために猿が登用されたとも言えよう。美しく咲き誇る桜の下での一場面である。赤銅魚子地高彫金銀素銅の色絵。江戸時代前期の後藤の作品。