以前にも書いたと思いますが、人が何かを語ったりするときには、何か伝えたいことがあるものです。それで、人の言う言葉に耳を澄ませて、語る人の思いを考えることは大切なことです。それと同じように、自分は何を伝えたいのか、自分の語るところの言葉にも耳を澄ませなければならないと思います。
どうして私は戦争につながるようなことに拒絶を覚えるのだろうか。それは、若い人たちを死地へと追いやることにつながるからだと思います。もっと言えば、若い人の未来をコントロールしようとしていることになりはしなか、そんな風に思います。
それで、別に若者に対して格好つけて言っているというつもりはありません。格好つけるほどの知識も経験もありません。それでも、ワーワー言わなければならないと考えるのは、自分の子どもや孫が死地へと行かされたり、戦争によって殺されたりするようなことが我慢できないからです。
もちろん、自由な表現ができるからです。今は、ですが。もしも、これから自由な表現が許されなくなるかもしれませんので、今のうちに言うべきことは言いたいと思います。
子どもや孫の世代になって、「ジジイがトロトロしていたから、こんなことになったんだ」と子どもや孫に言われたくないからです。(ジジイとは、私のことです)
そうです。別に、知識があるからとか、立派な思想を持っているからとかではありません。とんでもない、単なる親バカの一種が動機です。子どもや孫たちに、「ジジイが馬鹿だった」と思われたくないだけです。(ジジイとは、私のことです)ダジャレですが、別の言い方をすれば、「おや、馬鹿か」と言われたくないだけです。