今から30年前の今日87年10月18日に近大記念館で行われた
WBCストロー級初代王者決定戦で1位の井岡弘樹が2位のマイ・
トンブリファームに3-0の判定勝ちし、ファイティング原田の
持つ最年少王者記録を更新する18歳9か月での戴冠となった。
試合は1回から長身を生かした井岡が足を使って動き回り、
ロングレンジから左ジャブを中心としたパンチをヒットし続け
優位に試合を進める。
5Rと6Rにはコーナーに詰めて猛攻を仕掛け終盤反撃に出て来
るマイを足を使ってかわしつつ、左ジャブからのワン・ツーを
的確にヒットするなど最後までペースは乱れずに120-105、
119-109、119-111という大差の3-0判定で快勝だった。
この年は3月に六車卓也がアサエル・モランに勝ってWBAバン
タム級タイトルを奪取したものの5月に朴賛栄に敗れて初防衛に
失敗すると、7月にはWBC:Jウエルター級王者の浜田剛史も前
王者レネ・アルレドントとの再戦で敗れて世界王者は不在とい
う中で行われた。
井岡は名トレーナーと言われたエディ・タウンゼントがデビュー
前から指導していた事でも話題になっていたのだが、7月には小野
健治を判定で破って日本王者になりWBC2位に浮上するとマイと
の決定戦が決まった。
実はジムの先輩だった赤井英和が85年2月に大和田正春との前
哨戦でKO負けしただけでなく開頭手術を受ける重傷のため引退せ
ざるを得なくなったのだが、世界挑戦が決まっていたのでWBCに
前渡し金を支払っていた事からジム側にとっては泣きっ面に蜂状態
だった。
それが井岡が日本タイトルを取った直後にストロー級の初代王者
決定戦が行われたのだから赤井の世界戦がキャンセルになった時に
ホセ・スレイマンWBC会長が‘ジムに代わりの選手がいれば優先
的に挑戦させる’と言った約束が守られたわけだった。
エディ・タウンゼントトレーナーは有望な選手をデビュー前から
指導し世界王者にする事を願っていたのだが87年にはガンが発見
されており、結果的に翌年の2月1日未明に亡くなるのだから井岡
-マイ戦が少しでも遅れていたら井岡と共に勝利の肩車をされての
握手はなかったわけである。
それを考えると赤井のKO負け~引退はエディ・タウンゼントに
は痛恨の出来事だったが、それが回りに回ってデビュー前から見た
選手を世界王者にするという念願が叶ったわけで最年少王者と王者
誕生とのダブルの喜びになったのだった。