ヘアサロンうつのみや・オーナーのスポーツやヒーローもの、雑談ネタを徒然なるままに
こーじ苑
JOEの戴冠
九州に甚大な被害をもたらした台風13号が15年前の台風19号と
被るのだが15年前の今日は浪速のジョーこと辰吉丈一郎がプロ入り
8戦目で世界を獲った日だ。
ある意味辰吉は鬼塚勝也と並んでデビュー時から注目していた選手だ。
蒲田時代の88年から89年は日本のボクシングは世界チャンピオンが不在で
20連敗というドン底だった。それでも休憩時間に解説をされていた故・白井
義男さんが「10年周期でいい時もあれば悪い時もある、あと3年もすれば
世界チャンピオン5人は夢ではない。いい若手が育っている」と話し掛けた
私に応えて下さり鬼塚やデビュー前の辰吉の名前を出された。(実際に
3年後の92年には辰吉をはじめ鬼塚、井岡、平仲、勇利と5人の世界チャン
ピオンを抱える事になるとは当時とてもじゃないが信じられなかった)
89年の9月に帰郷して以来ボクシング好きの友人が関東ローカルの試合の
ビデオを収録して送ってくれていたのでチェックしていたが辰吉に試合を
見ると「凄いけど相手のレベルが・・・」と噛ませ犬疑惑が頭を離れなかった。
だが4戦目の日本タイトルマッチで岡部繁との試合を見て「コイツは本物だ」
と確信したのだ。岡部は私が観戦していた時によく試合をしており長身から
しっかりとしたストレートが打てるタイプで世界を狙えるのではと思っていた。
それを一蹴したのだから(岡部は後に辰吉を破った薬師寺保栄にも勝っている)
評価が高くなるのは当然だ。6戦目で世界7位のA・トーレスと際どい試合を
演じたが幸運な引き分けで生き残り7戦目では1階級下の世界2位・Rパショネスを
ポイントアウトしほとんんど被弾しない戦い振りに安心した、本物は格下相手に
パンチを貰わない。ディフェンスもすばらしかった。
辰吉の素晴らしいところは多彩な左主体のコンビネーションとかわしながら
パンチを打ち込める攻防一体のスタイルにあり、それゆえ「左のガードが
低すぎる」という批判も浴びたが辣腕プロモーターのドン・キングがプロ入り
2戦目の試合ぶりを見て「日本チャンピオンか?」と尋ねたが、2戦目という事を
聞いて驚嘆し「俺に預けないか?」と言ったそうだ。それぐらいの素材だった。
そして迎えた世界戦、ベテランのテクニシャンのGリチャードソンにプレッ
シャーをかけて追い回しダメージを蓄積させていき中盤はアッパーを浴びて
ピンチを招くが終盤連打を浴びせて打ちまくり10R終了時点でリチャードソンを
ギブアップさせた。
ファイティング原田が68年2月にバンタム級の世界タイトルを失って以来、87年に
六車卓也がタイトルを獲るまで19年のブランクがある。その間には村田英次郎の
ように4度挑み最初の2度は引き分けで奪取失敗というように延べ7人もの挑戦者達が
挑んでは失敗と日本にとって黄金のバンタムは高く険しい壁だった。
具志堅用高や井岡弘樹みたいに9戦目での奪取はあくまで新設のJフライ(現ライト
フライ)級やストロー(現ミニマム)級でこそと思っていた。
それを僅か8戦で奪取するとは・・・コイツは凄いチャンピオンになる。
という思いはその後ある意味で外れ、ある意味で当たった。
ファイティング原田のライバルだったカミソリパンチャー海老原博幸は原田が
奪われた世界フライ級タイトルを奪回したが、その強打が己の拳をも破壊するため
拳の骨折に泣き初防衛に失敗後5年かけて返り咲くが拳の骨折によりまたしても
初防衛に失敗し引退した。
辰吉には拳の骨折という話は聞かなかったので前途洋々に見えたのだが3ヵ月後に
左眼網膜裂孔で初防衛戦は中止になりキャリアは迷走を始めてしまう。
辰吉の最も輝いた試合が91年9月19日のグレッグ・リチャードソン戦だった。
被るのだが15年前の今日は浪速のジョーこと辰吉丈一郎がプロ入り
8戦目で世界を獲った日だ。
ある意味辰吉は鬼塚勝也と並んでデビュー時から注目していた選手だ。
蒲田時代の88年から89年は日本のボクシングは世界チャンピオンが不在で
20連敗というドン底だった。それでも休憩時間に解説をされていた故・白井
義男さんが「10年周期でいい時もあれば悪い時もある、あと3年もすれば
世界チャンピオン5人は夢ではない。いい若手が育っている」と話し掛けた
私に応えて下さり鬼塚やデビュー前の辰吉の名前を出された。(実際に
3年後の92年には辰吉をはじめ鬼塚、井岡、平仲、勇利と5人の世界チャン
ピオンを抱える事になるとは当時とてもじゃないが信じられなかった)
89年の9月に帰郷して以来ボクシング好きの友人が関東ローカルの試合の
ビデオを収録して送ってくれていたのでチェックしていたが辰吉に試合を
見ると「凄いけど相手のレベルが・・・」と噛ませ犬疑惑が頭を離れなかった。
だが4戦目の日本タイトルマッチで岡部繁との試合を見て「コイツは本物だ」
と確信したのだ。岡部は私が観戦していた時によく試合をしており長身から
しっかりとしたストレートが打てるタイプで世界を狙えるのではと思っていた。
それを一蹴したのだから(岡部は後に辰吉を破った薬師寺保栄にも勝っている)
評価が高くなるのは当然だ。6戦目で世界7位のA・トーレスと際どい試合を
演じたが幸運な引き分けで生き残り7戦目では1階級下の世界2位・Rパショネスを
ポイントアウトしほとんんど被弾しない戦い振りに安心した、本物は格下相手に
パンチを貰わない。ディフェンスもすばらしかった。
辰吉の素晴らしいところは多彩な左主体のコンビネーションとかわしながら
パンチを打ち込める攻防一体のスタイルにあり、それゆえ「左のガードが
低すぎる」という批判も浴びたが辣腕プロモーターのドン・キングがプロ入り
2戦目の試合ぶりを見て「日本チャンピオンか?」と尋ねたが、2戦目という事を
聞いて驚嘆し「俺に預けないか?」と言ったそうだ。それぐらいの素材だった。
そして迎えた世界戦、ベテランのテクニシャンのGリチャードソンにプレッ
シャーをかけて追い回しダメージを蓄積させていき中盤はアッパーを浴びて
ピンチを招くが終盤連打を浴びせて打ちまくり10R終了時点でリチャードソンを
ギブアップさせた。
ファイティング原田が68年2月にバンタム級の世界タイトルを失って以来、87年に
六車卓也がタイトルを獲るまで19年のブランクがある。その間には村田英次郎の
ように4度挑み最初の2度は引き分けで奪取失敗というように延べ7人もの挑戦者達が
挑んでは失敗と日本にとって黄金のバンタムは高く険しい壁だった。
具志堅用高や井岡弘樹みたいに9戦目での奪取はあくまで新設のJフライ(現ライト
フライ)級やストロー(現ミニマム)級でこそと思っていた。
それを僅か8戦で奪取するとは・・・コイツは凄いチャンピオンになる。
という思いはその後ある意味で外れ、ある意味で当たった。
ファイティング原田のライバルだったカミソリパンチャー海老原博幸は原田が
奪われた世界フライ級タイトルを奪回したが、その強打が己の拳をも破壊するため
拳の骨折に泣き初防衛に失敗後5年かけて返り咲くが拳の骨折によりまたしても
初防衛に失敗し引退した。
辰吉には拳の骨折という話は聞かなかったので前途洋々に見えたのだが3ヵ月後に
左眼網膜裂孔で初防衛戦は中止になりキャリアは迷走を始めてしまう。
辰吉の最も輝いた試合が91年9月19日のグレッグ・リチャードソン戦だった。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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一応現役続行の意思はありそうですがもはや無理でしょうね。
デビュー当初は「1度でも負けたら引退する」などと豪語したましたがラバナレス、サラゴサなどに苦杯を喫した事が辰吉のキャリアに対するシンパシーをもたらしたのは間違いありません。
かつての輪島功一のように。