背番号17=速球派のイメージを作った倉田誠


gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/sponichi/sports/sponichi-spngoo-20211213-0075

 やや旧聞になるのだがジャイアンツのV9を支えた倉田誠氏が、
75歳で亡くなったとの事。

 個人的に野球に興味を持って見始めたのが73年あたりからで、
この年はジャイアンツとタイガースが最終戦まで優勝を争った年
だったが前年ストレートとカーブだけで26勝を挙げた堀内恒夫が
不調。

 その一方で高橋一三が23勝と大黒柱で活躍し堀内の穴を埋めた
のが倉田で先発&リリーフとフル回転し18勝を挙げたのが効いた
し、日本シリーズでもG2と優勝を決めたG5に先発しG5では勝ち
投手になっているのだ。

 とにかく真っ直ぐが速いのとフォークボールを武器にしており、
フォークボールという存在を知ったのも倉田が初めて。

 氏のリザルトを見ると65年にジャイアンツ入りし4年目の68年
に6勝を挙げて頭角を現すのだが、巨人の星の中で‘レギュラーシ
ーズンで連敗を止めた倉田’という会話が出て来るのがこの頃だ。

 その後70年からリリーフ中心で投げて4勝~5勝ほど挙げていた
のだが、73年はエースの堀内恒夫が12勝17敗と勝てなかったのに
対し先発とリリーフでフル回転し18勝9敗で,667の最高勝率のタイ
トルまで獲得している。

 特に勝負どころの9月以降は高橋が11試合登板全て先発だった
のに対して倉田は先発7試合&リリーフ5試合と12試合に登板し、
10月10日の後楽園でのタイガースとの天王山初戦では田淵幸一
から逆転満塁HRを打たれてはいるが それだけここ一番で起用さ
れていた証拠だろう。

 もっとも二桁勝利は73年だけだしジャイアンツ最後の76年は
ほぼ敗戦処理のような形で、翌77年に浅野啓司とのトレードで
スワローズに移籍するのだが翌78年には43試合に登板し5勝2敗
4S防御率4,24の成績で日本一に貢献していた。

 ちなみに倉田の背番号17を浅野が継承したわけだが両者共に
速球が武器の本格派だった事から速球派投手の背番号というイ
メージだったし、54でデビューした槙原寛己が背番号変更の時
に‘槙原なら17だろう’と思っていたら案の定だったので妙に嬉し
かったのを覚えている。

 そのイメージを作ってくれたのが倉田だったわけで、野球を
見始めの頃に活躍していた選手達が亡くなるのは本当に残念だ。

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