また1人 名将が・・・・尾藤公・元箕島監督死去

尾藤公氏死去=甲子園春夏連覇の名将―68歳(時事通信) - goo ニュース

 今日の昼のニュースで膀胱癌で闘病中だった元箕島の尾藤公氏が68歳で
亡くなった事を知った。

 甲子園で氏の姿を見たのは91年春が最後だったが79年夏の3回戦で戦った
星稜-箕島の延長18回を当時戦った選手達がOB戦をしているドキュメントの
中で膀胱癌で闘病中という事は知っていたし、そのため球場に足を運べないと
いう話をも聞いていたので決して楽観できる状態ではないと思っていたが
こんなに早く亡くなるとは思わなかった。

 箕島の歴史は尾藤監督の歴史ともいえるもので甲子園での成績は春:22勝
5敗、夏:13勝6敗の通算35勝11敗。
 
 最初に甲子園出場したのが68年春で後のライオンズのエース・東尾修を擁して
ベスト4に進出すると2年後の70年春には島本講平を擁して見事に優勝。

 7年後の77年春にも定時制で働きながら通学していた‘勤労エース’の東が
5試合で僅か3失点という好投で2度目の優勝を飾ると、79年には石井毅-
嶋田宗彦のバッテリーで春夏連覇の偉業を達成している。

 ちなみに春夏連覇を達成したのは箕島以外では62年の作新学院、66年の
中京商、87年のPL学園に98年の横浜、10年の興南と5校あるが公立での
春夏連覇は箕島のみである。

 実は77年と79年に選抜優勝しているのだが中間の78年は77年に優勝した
時の下級生と79年春夏連覇の主力がミックスされたチームで、ベスト8で夏優勝
するPL学園に勝ちながらベスト4で福井商相手にヒット数は上回りながら3-9で
敗れているのだが、優勝してもおかしくないメンバーだったので もし優勝して
いれば春3連覇達成という大記録になっていたのだ。

 私が高校に入学した79年は その春夏連覇の年にあたるのだが、野球部の
練習で箕島が得意としたピッチャー・ファースト・セカンドの間に転がすプッシュ
バントを散々やらされた事があった。

 とはいえ箕島の特徴は応援の横断幕にあった‘黒潮打線’。
 待球スタイルが主流だった時代にファーストストライクからどんどん打っていく
のは小気味よく、辛口解説だった松永玲一氏も‘ファーストストライクを打つのは
集中力がある証拠でヒットの確率も高い’と絶賛していたのを思い出す。

 実際 甲子園での46試合中2桁安打を打った試合は勝ち試合が22で負け試合
でも3試合あり2桁打てなくても7安打以上打った試合が勝ち試合で10、負け試合
でも3だから6安打以下だった試合は僅かに5だから いかによく打っていたか
分かる。
 
 ちなみに打力が求められる夏に6安打以下だった試合は2試合だったのだから
凄い。
 チーム通算ホームラン数は13本と82年以降パワー野球全盛になる前がチーム
のピークだった事を考えると長打力もあったわけで、長打力を含めた強打と
プッシュバントに代表される小技を絡めた理想的な打線を組んでいたという事
だろう。

 しかも勝つだけではなく高校野球を教育の一環と捉えていたのが分かるのが
選手達との触れ合い。

 教え子だけでなく79年の星稜戦で延長16回2アウトランナーなしから同点HRが
出る前に1塁へのファールフライを星稜のファースト・加藤直樹が転倒して落球
した直後だったという事で試合後も加藤を励ます手紙を送ったりして親交を持って
いたらしい。

 監督を辞めたのも腰痛からノックができなくなったので‘ノックできないのは選手
との触れ合いができない’という理由だった。
 
 よく言われる‘練習では鬼だが試合ではリラックスさせるために笑顔’という
理由での試合中の尾藤スマイルも有名で、高校野球ファンの中で尾藤監督を嫌う
者はいなかったのではないか。

 今頃は79年夏のファイナルで戦った池田の蔦文也氏と三途の川で野球をして
いるのかもしれない。

 ご冥福をお祈りします。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
蔦監督が恐れた名将 (吉法師)
2011-03-07 12:55:10
池田高校の全盛時代の頃、対戦相手として一番脅威を感じるのは?の問いに対して、蔦氏は「尾藤じゃ、あの男の野球が一番恐ろしい」と、和歌山代表で箕島高校が出場して来る事を警戒していたのだそうです。
プロへも東尾修、吉井正人など個性豊かな選手を送り出した、昭和の野球史に欠かせない名指導者ですね。

池田高校も箕島高校も、強豪校でありながら公立校、私の地元の古くからの強豪、斉藤監督の銚子商業、石井監督の習志野、荒井監督の我孫子など、あの当時は公立の強豪校が多く、より郷土対抗の色彩が色濃く感じられて、春夏の風物詩・お祭りと言う感覚が強かったように思います。佐賀商業、千葉商業、印旛、柏陵と、公立校の教師として赴任する先々で甲子園へと導いた蒲原弘幸氏も懐かしい名前ですね。
 
 
 
Unknown (前略鷹男)
2011-03-07 18:09:12
昔は水分補給は何故かタブーとされてましたが、尾藤監督は バテやすいエースに 水分を補給させる様になってから見違える様な投球をするようになったという記事を目にした記憶があります。

まあ今では普通のことですけどね。

監督就任当時は厳しさを全面に出していたそうですが、一度 、退任してからは考えを改めたとのこと。
厳しいだけでは駄目と悟った様ですね。
 
 
 
書き込み御礼&レス (こーじ)
2011-03-08 00:17:52
>吉法師様
 それは分かるような気がします。
 打線の強さは池田の方が上というイメージがありますけど、実は箕島打線も遜色なかったですから そうなればプッシュバントなどの緻密さが生きてくるわけで
箕島の方が1日の長がありましたからね。

 実際79年夏はそういう形になりました。

 82年・83年の池田の全盛時に対戦を見て見たかった気がしますね。

>前略鷹男様
 やはり我が母校の某氏のように現場しか知らなくて‘厳しければいい’と思っている指導者が多いですからね。

 ボーリング場で働いた事などの経験が生きたのでしょうね。

 原貢氏も夏場の水分捕球については肯定していたのですが、なぜか主流にならなかったのはマスゴミの原理主義報道が影を落とす形になってますよね。
 
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