一葉一楽

寺社百景

鳥取東照宮 ー 二つの東照宮

2025-01-29 13:37:30 | 神社
鳥取東照宮は、嘗て因幡東照宮と呼ばれていたが、神仏分離令後の明治七年(1874)に所在地の名をとり、樗谿神社と改称、140年弱後の平成二十三年(2011)に鳥取東照宮と名を変えた。
外様大名の、地元への東照宮勧請は幕府への臣従の表明と幕府はみたが、池田家は準親藩との自負があっての勧請か。御三家はそれぞれ久能山東照宮を模した東照宮をそれぞれの土地に造営している。
池田家は岡山藩池田光政の備前東照宮(現玉井宮東照宮」)、正保二年(1645)造営、に始まる。この時幕府から「軽く御造営」の意が伝えられたという。また棟札に幕府御大工木原杢允義久の名がある。因幡池田家の東照宮造営は慶安三年(1650)である。この時も木原義久の名が残るが、「軽く造営」とは権現造りは不可の意で、木原義久を介入させたと推定される。


    

(注)1. 1969年6月撮影
   2.唐門が見えない。



(注)2024年12月撮影

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大瀧神社 ー キッチュ

2024-11-17 19:37:49 | 神社
大瀧神社は日野川の東、四十八ケ村の鎮守であった。製糸業を生業とする今立五箇もその中に入る。その下御堂(里宮)が古くなり立替請負の要望が地元五箇村の大工四人から世話人三田村氏をとおし神主に出されたのは天保十一年(1841)であった。
重なり合う破風はシドニー・オペラハウスに似ているが、一度の設計変更を経て出来上がった。天保五年(1835)の「板地着色大瀧児大権現祭礼図絵馬」には建替前の本殿と拝殿が柄が描かれているが、その場での建替であれば充分余地があり、密接させて造営する必要はない。五間三間pan style="font-size:16px;">大瀧神社は日野川の東、四十八ケ村の鎮守であった。製糸業を生業とする今立五箇もその中に入る。その下御堂(里宮)が古くなり立替請負の要望が地元五箇村の大工四人から世話人三田村氏をとおし神主に出されたのは天保十一年(1841)であった。
重なり合う破風はシドニー・オペラハウスに似ているが、一度の設計変更を経て出来上がった。天保五年(1835)の「板地着色大瀧児大権現祭礼図絵馬」には建替前のo奥宮と同じ一間の本殿と石段下に桁五間梁三間の拝殿が描かれており、その場での建替であれば充分余地がある、密接させて造営する必要はない。拝殿を廃し本殿に密着させたのは、神社色を強めるとの意図であろうか。当初設計案で十分意図は達成しているが、現本殿は千鳥破風と唐破風の装飾的な屋根を付加し、脇障子を斜めにし、千木・鰹木を載せる。社殿彫刻は中国の故事を題材とする、国学ではなく儒教である。
氏子の反応は判らない。この江戸末期の風潮に受け入れる素地はあったのであろう。しかし屋根の上に屋根を重ねることは次の建て替えに採用されるだろうか、少なくとも今までのところ模倣はない。
















(注)2024年10月撮影
(参考文献)
1. 国京克己「大滝神社本殿及拝殿の普請経過と設計変更時期について」
       若越郷土研究66巻1号、2021.
2. 国京克己 「大滝神社社殿と柏原八幡宮社殿ー社殿の類似性と独創性」
       若越郷土研究68巻1号、2023.
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宗像大社中津宮 - 鰹木

2024-07-26 09:20:27 | 神社
中津宮本殿は永禄九年十二月(1566)大宮司氏貞が造営した。氏貞は庶子と猶子との間の家督相続を制し大宮司八十代(七十九代?)となった。造営に先立って氏貞は官位の沙汰を乞い、永禄八年(1568)吉田兼右から「中納言は往古より不審、傍例に委すべき」との回答で、宗像氏本流であること表す「正三位中納言大宮司宗像朝臣氏貞」を名乗ることになる。本流最後の当主の誕生である。
中津宮本殿の鰹木は、吉田神社大元宮の鰹木を模した形をとる。大元宮の祭神は宇宙の根元神であるとする虚無太元尊神である。宗像三女神も吉田神道に組み込まれたことの象徴であろうが、中津宮本殿が向き、海上の参道を通して先にある、天正五年(1577)造営の辺津宮本殿ではその置札に「正三位中納言大宮司宗像朝臣氏貞」と書くものの、中津宮本殿の形は模すが、鰹木は大元宮のそれを採らない。










吉田神社大元宮

(注)2023年5月撮影
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宗像大社 ー 海上の参道

2024-06-01 21:06:18 | 神社
玄界灘に浮かぶ沖ノ島から南南東に48Kmで大島、さらに11Kmで古代入江をなしていた釣川河口に到る。「日本書紀」巻第一によれば、師杵島姫命を祀る遠瀛(オキツミヤ)、田心姫命の中遠(ナカツミヤ)、そして湍沖姫命の海濵(ヘツミヤ)となる。
辺津宮も、沖ノ島同様斎場のみであったようで、高宮にその斎場が復元されているが、場所は嘗てとは異なる。神郡として宗形郡が建置されたのは、大化の頃(649)、宗像社が造営されたのは、宝亀七年(776)と「宗像社造営代々流記」にある。天応元年(781)には田島辺津宮に宗像三女神が合祀された。
宗祇が大内政弘に招かれ宗像大社を訪れたのは文明十二年(1482)である。「筑紫道記」には「ところは深山の側に。地は平にして木立茂き中に御社あり。廻廊はいたう破れて。雨露もたまり難けれど。御殿は廃せる所なし。」とある。貞和年中(1345-50)足利直義再建の社殿であろうか。ただ宗祇は「人の代の末まで守れ千早ふる神のみおやのことはの道」と詠み、祈ることは「道の事」であった。
この神殿も自火で弘治三年(1557)焼失。現本殿は大宮司氏貞により、筥崎大工日高定吉で再建されたのは天正六年(1578)である。拝殿は遅れて天正十八年(1590)小早川隆景の再建である。



高宮

 拝殿







(注)2023年5月撮影
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臼杵八坂神社 ー 脇社2

2024-02-09 20:34:57 | 神社
漂流し辿り着いたのは臼杵城三の丸であった。大友氏改易後の慶長三年(1598)、太田一吉が城主の時である。現在の社殿は明和七年(1770)本殿・拝殿ともに焼失後、臼杵藩十代稲葉弘通のときに再建したもである。焼失した祇園社の棟札には「牛頭天王」とある。災害多発・疫病蔓延のため藩財政窮乏でこの祇園社祭礼が中止されていたなか、疫病退散には「牛頭天王」であったのであろう。安永五年(1776)竣工。大工棟梁は臼杵市浜在の山崎平内重矩、宇野庄衛門吉矩である。
この「祇園社」の建造物の特徴は立体的な彫刻による装飾でる。そして脇障子と脇社を本殿本体の左右におくことである。脇社があるのは、大分県では犬飼町の天神社本殿(弘化三年(1846))、大野町の浅草八幡社本殿(宝暦十四年(1764))、臼杵市の八坂神社本殿(安永五年)、大分市の柞原八幡宮本殿(安政二年(1855))がある。八坂神社を濫觴とするかのようである。脇社にも装飾彫刻を施す。本殿装飾の一部であろうか、意図は分からない。脇社はこの時期この地方だけで終わる。


 
   

 

 

(注)2023年2月撮影
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