薩摩藩は廃仏毀釈の激しかった藩の一つである。明治七年(1874)には鹿児島県内1066寺が消滅、2964人の僧が還俗(安丸良夫「神々の明治維新」岩波新書 1979)。霧島神宮の別当寺であった華林寺もまた廃寺となった。江戸末期薩摩藩が編纂した「三国名勝図会」には「西御在所霧島六所権現社」として、今は撤去されなくなっている鐘楼・多宝塔など仏教建造物が挿絵に載る。編者は疑義を挟むが、仏教公伝の頃慶胤上人開闢と伝え、村上天皇の頃(947-957)天台宗僧侶性空上人が六観音を本地とし、神社・別当寺を新建するという。文暦元年(1234)御鉢のマグマ噴火の為焼失。文明十六年(1484)に至って真言宗僧侶兼慶法印が造営したものの、宝永二年(1706)に噴火の為焼失。正徳五年(1715)島津吉貴が再建したのが現社殿である。天台宗にしろ真言宗にしろ修験が大きく関わって神社が成り立ってきたのであろう。僧侶が中心となった神社経営であった。
御鉢を噴火口とした準プリニー式噴火が主、成層圏まで届くかと思わせる噴煙から火山灰やら軽石が降ってくる様相は、天から神が降臨する姿に見えたのかも知れないが、「古事記」等の記述からはその様な光景は想像できない。山岳信仰に仏教が寄り添ってきた習合と考えたほうがいいようである。
(注)2020年10月撮影
御鉢を噴火口とした準プリニー式噴火が主、成層圏まで届くかと思わせる噴煙から火山灰やら軽石が降ってくる様相は、天から神が降臨する姿に見えたのかも知れないが、「古事記」等の記述からはその様な光景は想像できない。山岳信仰に仏教が寄り添ってきた習合と考えたほうがいいようである。
(注)2020年10月撮影