嘗ては興隆、今は衰退。今も昔も、海龍王寺を語る時の常套文句のようである。確かに今東門は、漆喰は落ち、土壁となり、拝懸魚はなく、降懸魚は風で揺れ、いかにも古寺の雰囲気を醸し出している。
東門
「続日本紀」天平10年(738年)に山階寺、鵤寺とともに隅院と海龍王寺の名で出てくる。寺域は狭くとも、当時の大寺と同様知られていたのであろう。衰退。南都六宗復興と時を同じくし、正応5年(1292年)には伽藍を再興した。また衰退。江戸時代、寺領百石や隆光の舎利殿一区の寄進もあってか(「隆光僧正日記」)、かろうじて維持していたようである。(参考:天沼俊一「海龍王寺五重小塔に就いて」建築雑誌258号、1908年)
明治初めの廃仏毀釈は、海龍王寺の風景を大きく変えたようである。「大和名所図会」の挿絵には、本堂の他東、西金堂と経蔵などが描かれており、寺域も今よりは広かった。今東金堂もなく、境内も狭い。一体何があったのであろうか。今も会津八一、堀辰雄の世界が残っているのである。
西金堂
西金堂は、五重塔、すなわち舎利塔の覆堂である。しかし金堂と呼ぶには簡素すぎる堂舎である。明治に無くなった東金堂にも塔があったというが、薬師寺の東西塔を様式だけでなく、二塔であることを模したのであろうか。もっとも塔があったという史料が見つからないのだが。
西金堂内五重小塔
(注)2011年1月撮影