一葉一楽

寺社百景

海龍王寺 ー 古寺という肩書

2012-02-21 15:37:50 | 寺院

嘗ては興隆、今は衰退。今も昔も、海龍王寺を語る時の常套文句のようである。確かに今東門は、漆喰は落ち、土壁となり、拝懸魚はなく、降懸魚は風で揺れ、いかにも古寺の雰囲気を醸し出している。

                 

                 東門

「続日本紀」天平10年(738年)に山階寺、鵤寺とともに隅院と海龍王寺の名で出てくる。寺域は狭くとも、当時の大寺と同様知られていたのであろう。衰退。南都六宗復興と時を同じくし、正応5年(1292年)には伽藍を再興した。また衰退。江戸時代、寺領百石や隆光の舎利殿一区の寄進もあってか(「隆光僧正日記」)、かろうじて維持していたようである。(参考:天沼俊一「海龍王寺五重小塔に就いて」建築雑誌258号、1908年)

明治初めの廃仏毀釈は、海龍王寺の風景を大きく変えたようである。「大和名所図会」の挿絵には、本堂の他東、西金堂と経蔵などが描かれており、寺域も今よりは広かった。今東金堂もなく、境内も狭い。一体何があったのであろうか。今も会津八一、堀辰雄の世界が残っているのである。

                 

                 西金堂

西金堂は、五重塔、すなわち舎利塔の覆堂である。しかし金堂と呼ぶには簡素すぎる堂舎である。明治に無くなった東金堂にも塔があったというが、薬師寺の東西塔を様式だけでなく、二塔であることを模したのであろうか。もっとも塔があったという史料が見つからないのだが。

               

               西金堂内五重小塔

(注)2011年1月撮影

 

 

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元興寺 ー まちに呑みこまれた七大寺

2012-02-16 09:50:58 | 寺院

「大和志料」に寛文6年(1666年)刊行の「和州寺社記」が引用されている。「古へは寺内も六町たるよし、いつの頃よりか次第に民屋の地となり、今はわつか方五十間の内に昔の塔一基堂一宇残れり」と。この堂塔も安政6年(1859年)に民家から発した火により焼失し、今は礎石のみが民家に取り囲まれて残る。建物が残るのは、嘗て元興寺から独立した極楽院、現元興寺のみである。

                

                本堂

鎌倉時代は南都六宗が息を吹き返し、七大寺巡りが流行した時期であるが、浄土信仰が民衆に広まった時代でもある。元興寺の僧房は、極楽院の本堂と禅室とに改築された。建長7年(1255年)「七大寺日記」に「仏房ハ塔之北ニ一町許行テ東西ニ横ル連房アリ。其中心馬道アリ」とある(平安末期には分離、現在の形になったのは棟札によれば寛元2年1244年である)。この改築は奈良時代の部材を最大限使ったようで、東大寺工匠による(大河直躬「番匠」)。和様の中に大仏様が混在する所以である。  

      

      

     本堂                   禅室

      

(注)2011年1月撮影

江戸時代、元興寺は寺領五十石に対し、極楽院は百石であったが、まちなかにあって何とか寺院であることを維持できた。しかし明治に入って建物は学校に使われ、寺は無住となった。民間信仰はあてにはならなかったようである。当然和辻哲郎の「古寺巡礼」でも触れられることはなかった。本堂の内部、内陣が外陣に囲まれているが、改築当初からのものであろうか、学校であったことから疑問を感じる。

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新薬師寺 ー 天平らしさとは?

2012-02-09 10:59:38 | 寺院

和辻哲郎の「古寺巡礼」に「やはり天平建築らしい確かさだと思う。あの簡素な構造を以てして、これほど偉大さを印象する建築は他の時代には見られない」(岩波書店、改訂版)とある。大正6年(1917年)5月のことである。天平建築を云っているのか、新薬師寺の本堂のことを云っているのか曖昧さが残る文章であるが、関野貞による明治30年(1897年)の復元を知っての発言である。明治の修理では延慶3年(1310年)に付加されていた礼堂や内部天井が撤去された(村上訊一「文化財建造物の保存と修理の歩み」日本の美術525)。確かに写真から見る限りでは、天平風の屋根に向拝がとりついた本堂の姿は奇妙に見える。しかし鎌倉末期、特権階級だけでなく庶民にまで広がった薬師信仰には向拝は不可欠であったのであろう。その庶民の薬師信仰があったから、明治まで新薬師寺が生き残ったのであろうと考えると、向拝撤去は新薬師寺の行き方を大きく変えたものではなかろうか。

         

    

                       本堂

                   

                    鐘楼

(注)2011年1月撮影

「東大寺要録」に天平19年(747年)「仁聖皇后縁天皇不予。立新薬師寺?造七仏薬師像」とある。薬師寺が天武天皇が持統天皇の病平癒の祈願であったのに対応しての「新」薬師寺であったのでは。東大寺が国家、新薬師寺は個人を、また東大寺は未来、新薬師寺は現世を指向とセットとなった造営であったようである。この新薬師寺、「東大寺山堺四至図」に東大寺の伽藍とともに、ポツンと新薬師堂と描かれ、その位置に2008年、その跡が発掘されている。現本堂の造営時期は不明である。総供養の宝亀3年(772年)までには出来あがっていたのであろう。以降衰退の道を辿り、鎌倉時代に寺域を狭くし再興、これが現伽藍である。

以下は1964年当時の写真である。古寺の風情である。本堂内への光は扉を半開きにし取り入れているだけであった。明治修理前の図面を見ると、連子窓がある。庶民一般の利便性を考えれば当然であろう。

                  

    

                      

(注)1964年8月撮影

 

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大崎八幡宮 ー 都らしさの移植

2012-02-03 13:49:46 | 神社

多賀城碑、「西」と最上部に刻まれ、「去京一千五百里」と続ける。平城京から離れ、この地にいた恵美朝�紡の心境であろう。伊達政宗にはこの自負や感傷はない。都を持ってくればよいと発想した。

大崎八幡宮は北野天満宮と同じ慶長12年(1607年)の造営である。棟札や「治家記録引証記」に大工は山城国の(梅村)日向守家次、棟梁に紀伊国の(梅村)三十郎頼次、そして「天下無双之巧人」刑部左衛門国次、更に鍛冶雅楽助吉家、絵師は佐久間左京の名前が挙がっている。山城又は紀伊から人を呼んで仙台の地に都の華やかさを演出した。豊国社造営には紀伊の平内一門がからんでいたようだが、梅村一門が全く無関係であったとはいえまいが、北野天満宮には関わりようがない。かえって京の工匠たちの取り合いがあったかもしれない。廻廊のない豊国社がみちのくの地に出来あがったのである。都の技術の地方への伝播である。もっともそれ以上の発達はなかったようだが。

      

(注)1966年5月撮影

             

       

(注)1964年5月撮影 

         

(注)1966年6月撮影

豊国社にしろ、北野天満宮にしろ人を神として祀る。石の間造(権現造)はこのための様式だと言われているよだが、大崎八幡宮の祭神は所謂八幡神である。単に神社の一様式として、豊国社を真似たのであろう。石の間の内部、北野天満宮と同様に本殿の軒を見せるが、石の間にも折上格天井と、また全体に建築装飾と北野天満宮と比べ華美である。また次に来る中井大和守の元和度東照宮をも凌駕する。伊達政宗の好みは徳川家康ではなく、豊臣秀吉に近かったのでは。

1963年当時の内部の写真を紹介する。昭和41年(1966年)の部分修理、平成12年(2000年)-平成16年(2004年)の半解体修理の前の姿である。

      

(注)1963年10月撮影

 

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