一葉一楽

寺社百景

老神神社 ー 霧島系の混在

2018-06-30 20:34:47 | 寺院
茅葺の覆屋の中に本殿に、奥行の長い拝殿、そして鍵手に神供所を配する平面の神社は、祭神に関係なく、この人吉地域には目に付く。老神神社の祭神は日向三代、即ち霧島神宮同体である。勧請年代は未詳である(球磨郡教育支会著「球磨郡誌」1941)。球磨川流域の、人吉より西側には阿蘇系の神社が多いが、東側には霧島系が見られ始める。
棟札によれば相良頼尚(頼寛)の産土神として、犬童頼兄が社殿を造営したとある。頼尚の母は日向高鍋の秋月種美の娘であることから、既存の霧島系の神社をもって産土神としたものと推察される。なお頼尚の正室は頼兄の娘である。
本殿は入母屋造、栩葺で寛永五年(1628)の造営である。本殿の左右の虹梁には鬼が座り、神々を守る。
拝殿・神供所もほぼ同時期の造営とみられているが、今は桟瓦葺であるが、嘗つては茅葺であったとのことである。覆屋の茅葺と相俟って、神々の座と人の座を茅で覆う。


    拝殿

   本殿

(注)2018年2月撮影
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青井阿蘇神社 ー 阿蘇の復活

2018-06-11 10:44:48 | 神社
慶長十五年(1611)の棟札には「青井大明神」とし「当国惣廟阿蘇十二宮第一宮健磐龍王是本地十一面観音垂迹也」とある。明治元年(1868)「青井神社」と改称し、明治五年になって「青井阿蘇神社」と「阿蘇」を称するようになった。球磨地方の多くの「大明神」が「阿蘇神社」となった。廃藩置県で人吉藩の束縛がなくなったからであろうか。阿蘇の復活である。
現社殿は慶長十四年(1610)着工、本殿・幣殿・拝殿・楼門の順に造営、同十八年に完成した。棟札が掲げられた時には楼門は竣工してはいなかった。(「重要文化財青井阿蘇神社社殿修理工事報告書」同修理工事委員会編 1957)。
大檀那は相良頼房、奉行は、人吉藩二万二千石の内8千石の知行であった相良(犬童)頼兄である。棟札によれば藩主とその子息の無病息災を願っているのであるが、家老には、武運長久・家門繁栄が祈願されており、藩主を凌ぐ権力をもっていたことが窺える。楼門に、頼兄の意図が反映されていると勘繰れないことはない。狛犬を従えた随神を両側に置いている他に、楼門の厄除けの様に、対の鬼面を軒下に備える。甲信越の神社では本殿箱棟に鬼面がある場合があるが、ここ本殿には見当たらない。



      楼門

拝殿・幣殿・本殿はT字型に並ぶ。拝殿は正面一間を吹き抜けとし、内部を神楽殿・拝殿・社務室に分ける。拝殿(旧称下拝殿)から幣殿(旧称上拝殿)に繋げる。球磨地方にみられる神供所を拝殿横に取り付ける配列の変形とみることができる。拝殿・幣殿は茅葺の上、木割も細く、装飾以外に特筆することはない。「修理工事報告書」では現拝殿は一般に開放されていたと推測している。また現幣殿が上拝殿と呼ばれていたことを考えると、拝殿部分の延長で参拝者の身分の上下の差であったのかも知れない。

  拝殿  幣殿

本殿は正面に亀甲文様の蔀戸、側面・背面の軸部には筋交いに桟を設ける。また小壁に、楼門・拝幣殿に共通するが、仏寺の意匠ともいってよい彩色した格狭間で飾る。この神社の格狭間はここ球磨そして薩摩にかけて特有といってもいいかもしれない。棟札にある大工窪田正市允、愛甲喜七郎は何処の棟梁なのであろうか。

  本殿

棟札によれば青井阿蘇神社は大同二年(806)草創と伝える。球磨地方には、大同年間草創と伝える神社が多い。「日本後紀」には肥後国のみならず大宰府管内疲弊し田租免除を奏上している。関係なしとは言えないだろう。

伊勢両皇大神宮

(注)2018年2月撮影
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