一葉一楽

寺社百景

北野天満宮 ー 権現造の祖形?

2011-12-25 17:34:27 | 神社

今ある北野天満宮社殿はその形と彩色で特徴づけられるのではないか。再建当時の流行を考えると彫刻も少なく、餝金具も効果的な華美さを醸し出している。拝殿側廻廊の吊り灯籠だが目立つ、時代は下がるようだが。本殿およびその回廊の彩色は、落ち着いた茜色と他の寺社では見かけない。創祀より5度目の改築、天徳4年(960年)の社殿は「三間三面庇檜皮葺也」と日吉造のようだが、「所用之色不可盡筆端」と「北野縁起」にある。天徳期の建物が残っていれば、美的感覚の違いが分かるのだが。現在の社殿は慶長12年(1607年)の秀頼再建である。「徳川実紀」には「生母大虞院の祈願をこむる故あるなるべし」と淀どのの関与を云う。東寺と同じく北政所の関与というのが史実のようだが。寛文・元禄以降何回か丹波園部藩による修理が行われており、その時に色が変わった可能性はないとは言えない。もっとも北野天満宮は大工弁慶家等々(慶長12年の棟札には当社御大工として岩倉五郎左衛門の名がある)が連綿と携わっており、伝統の色というのが正解であろう。しかし同時期に建てられた権現造の仙台大崎八幡宮と比べると若干様式、意匠が異なる。

   

「都名所図会」で見る本殿は、石之間造風に描かれているが、楽之間と拝殿の関係を見間違えている。八棟造とも云われるのも無理がない。元禄13年(1700年)の修理時には、本殿、幣殿、拝殿とあり、石之間或いは権現造を思わせる言葉は出てこない。延喜19年(919年)創祀の安楽寺天満宮(大宰府天満宮)は流造、そして姫路の津田天満宮に永仁6年(1298年)奉納された「北野天神絵巻」官位追贈の場面では、狛犬が高縁に載った、石之間造とは思えぬ本殿が描かれている。

     

(注)2011年1月撮影

 豊臣秀吉を祀る豊国社が北野天満宮に倣ったのは、「義演准后日記」慶長3年(1598年)の条に、「大仏東山に八棟作りの社頭建つ、北野社のごとしとうんぬん」とあることからも、明らかである。秀頼再建が慶長12年であるから、その前から八棟造、石の間造であったようだ。この形は一体どこまで遡ることが出来るのであろうか。

(追記或いは修正 2012.10.25) 石の間造は菅原道真の変化、すなわち「怨霊」から「学問の神様」への変化である。同じ空間にいることへの「恐れ」がなくなったためであろうか。朝廷の認識の変化であって、庶民の認識の変化ではない。

 

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増上寺 ー 政変そして戦災

2011-12-16 13:45:03 | 寺院

慶長3年(1598年)に現在地に移ってから、位置を変えていないのは三門のみである。その三門も元和6年(1620年)台風で倒壊、翌々年元和8年に再建されたものが残る(「徳川実紀」)。三門、決して鄙の建築ではない。流行の禅宗様を意匠として盛り込み、その豪放で周囲を圧倒する。洗練とか華麗という言葉は持ち合わせていない。江戸末期「江戸名所図会」の時点でみれば、享和2年(1802年)再建の土蔵造の経蔵もまたその位置にある。今その経蔵は東日本大震災で壁等々にヒビの入る被害を受け、吹放の裳階で機能美を演出していたが、漆喰を塗った跡が痛々しく残る。

    

  三門

            

            経蔵

明治になって増上寺が甘受せざるを得なかった変動は、明治31年(1898年)に提出された「増上寺境内地復旧請願書」に詳しい。御成門、黒門(方丈門)の移築に反映されている。もっとも御成門は増上寺の財産ではなくなっているようだが。

      

     御成門           黒門

(注)2011年11月撮影

増上寺を根底から変えたのは昭和20年(1945年)二度の空襲である。永井荷風が「霊廟」で描いた風景が消失したのである。そして西武による徳川家霊廟地の買収である。いくつかの焼け残った霊廟の門は位置を変えられ、痕跡が僅かに残るだけとなった。

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薬王院(水戸) ー 戦乱の中の再建

2011-12-12 13:29:23 | 寺院

水戸城址の南側、桜川を隔てて吉田台地がある。この台地上に6世紀後半と推定される、石室に武具の壁画のある、八角形(?)の小さな古墳、そして5世紀後半創建との伝承のある吉田神社がある。薬王院はこの吉田神社の神宮寺であった。この薬王院には茅葺の仁王門と茅葺型銅板葺の本堂が残っている。

      

     仁王門            本堂

本堂は大永7年(1527年)に焼失、享禄2年(1529年)に江戸通泰の寄進による再建と「薬王院文書」にある。昭和43年(1968年)解体修理は、土間床であった徳川光圀の貞享3年(1686年)改築の本堂ではなく、この江戸通泰再建の本堂を踏襲している(「重要文化財薬王院本堂復元修理碑」による)。江戸通泰は当時の水戸城主である。大掾、小田氏の没落後、佐竹氏と勢力拡張を図った常陸江戸氏、真言宗、後に起きる絹衣相論では薬王院の天台宗と対立していた。薬王院はこの戦国時代にかなり独立していたようで、取り込みを狙ったなかば強引な寄進であったのではなかろうか。

本堂は朱塗の仁王門とは異なり、彩色はなく、彫刻といった装飾もない。如何にも壇林との風情である。光圀が土間床にしたのも、あながち奇とはし難い。300年も土間床であったのである。ただこの光圀、水戸領内の寺院を整理した事実が背景にあることを念頭におくと、土間床の意味も若干変わる。昭和の解体修理の時には、余りにも禅宗様建築になっているのを嫌ったのであろうか。いずれにしても江戸通泰の時代、前島豊後守や野口治部少輔といった地方の大工棟梁たちは禅宗様を取り込むのは自然であったのであろうか。まだ鎌倉幕府の残映があったのかも知れない。

    

(注)2011年2月撮影

(追記)水戸藩における寺院削減については、ジェームス・E・ケテラー著「邪教/殉教の明治」(ぺりかん社、2006)を参考にした(2012年3月31日)。

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東漸寺釈迦堂 ー 推定の結果

2011-12-01 16:25:56 | 寺院

鎌倉に鎌倉時代の建物は残っていない。兵火などによる焼失は京都と変わらない。政治の中心地であったが故である。鎌倉から馬で半日、現在の横浜市杉田に、何とか鎌倉時代といえる禅宗様仏殿が残っている。厳密にいえば当初の部材が少々残っている建物があると言った方が良いかも知れない。ここ東漸寺、明治以前は「新編武蔵国風土記稿」によると、茅葺の本堂と左右に並ぶ塔頭で伽藍が形作られていたようである。ところが昭和48年(1973年)の解体修理の時には、花頭窓に僅かに禅宗様の面影を残す茅葺寄棟の堂であったそうである(関口欣也「武蔵杉田東漸寺とその釈迦堂」仏教芸術151号所収)。

正福寺の場合には少なくとも、茅葺とは云え、形は残っていた。今の形、創建時の形、に復元するのは不自然なことではない。東漸寺釈迦堂は明治42年(1909年)の修理で茅葺寄棟の堂に形を変えたようである。上知令で寺領を失った結果、修理するのに明治42年まで待たなければならなかった。明治の人にとって、修理とは文化財の保護ということではなく、寺を守ることであったのであろう。これは推測である。そして今の本堂、釈迦堂も昭和の修理の論理的推定の結果である。

     

円覚寺舎利殿、正福寺地蔵堂と比べ、東漸寺釈迦堂はやや大きい。裳階部分が正福寺の1.5倍ほどの長さが、全体の安定感を齎しており、宋からの禅宗様の移入は抵抗なく受け入れられたのではないだろうか。この釈迦堂を見た後では、舎利殿は尼寺からの移築、地蔵堂はやはり鎌倉から遠いことを実感させられる。またその高さは脆弱に見える。舎利殿、地蔵堂は時代も下がると思わざるを得ない。

               

(注)2011年11月撮影

 

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