今ある北野天満宮社殿はその形と彩色で特徴づけられるのではないか。再建当時の流行を考えると彫刻も少なく、餝金具も効果的な華美さを醸し出している。拝殿側廻廊の吊り灯籠だが目立つ、時代は下がるようだが。本殿およびその回廊の彩色は、落ち着いた茜色と他の寺社では見かけない。創祀より5度目の改築、天徳4年(960年)の社殿は「三間三面庇檜皮葺也」と日吉造のようだが、「所用之色不可盡筆端」と「北野縁起」にある。天徳期の建物が残っていれば、美的感覚の違いが分かるのだが。現在の社殿は慶長12年(1607年)の秀頼再建である。「徳川実紀」には「生母大虞院の祈願をこむる故あるなるべし」と淀どのの関与を云う。東寺と同じく北政所の関与というのが史実のようだが。寛文・元禄以降何回か丹波園部藩による修理が行われており、その時に色が変わった可能性はないとは言えない。もっとも北野天満宮は大工弁慶家等々(慶長12年の棟札には当社御大工として岩倉五郎左衛門の名がある)が連綿と携わっており、伝統の色というのが正解であろう。しかし同時期に建てられた権現造の仙台大崎八幡宮と比べると若干様式、意匠が異なる。
「都名所図会」で見る本殿は、石之間造風に描かれているが、楽之間と拝殿の関係を見間違えている。八棟造とも云われるのも無理がない。元禄13年(1700年)の修理時には、本殿、幣殿、拝殿とあり、石之間或いは権現造を思わせる言葉は出てこない。延喜19年(919年)創祀の安楽寺天満宮(大宰府天満宮)は流造、そして姫路の津田天満宮に永仁6年(1298年)奉納された「北野天神絵巻」官位追贈の場面では、狛犬が高縁に載った、石之間造とは思えぬ本殿が描かれている。
(注)2011年1月撮影
豊臣秀吉を祀る豊国社が北野天満宮に倣ったのは、「義演准后日記」慶長3年(1598年)の条に、「大仏東山に八棟作りの社頭建つ、北野社のごとしとうんぬん」とあることからも、明らかである。秀頼再建が慶長12年であるから、その前から八棟造、石の間造であったようだ。この形は一体どこまで遡ることが出来るのであろうか。
(追記或いは修正 2012.10.25) 石の間造は菅原道真の変化、すなわち「怨霊」から「学問の神様」への変化である。同じ空間にいることへの「恐れ」がなくなったためであろうか。朝廷の認識の変化であって、庶民の認識の変化ではない。