小山寺の名は、「弘長三年(1263)」の年号とともに、寒河江慈恩寺三重塔に安置されている大日如来像の胎内経奥書が初出のようである(「重要文化財小山寺三重塔保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編 1991)。慈恩寺三重塔は慶長十三年(1608)創建、文政六年(1823)焼失、同十三年再建という履歴を持ち、大日如来像は後日持ち込まれたと考えてよい。奥書には「大檀那長門守藤原朝臣時朝」、寒河江荘は藤原摂関家の荘園であったことを考えると、慈恩寺のどこかの堂舎に安置されていたのを移したのかも知れない。
しかし享保六年(1721)賢栄は「小山寺略縁起」に、慈恩寺同様、行基開創の伝承を誌し、三重塔の下には、行基の遺骨を納めたという。もっとも寛正六年(1465)建立の現三重塔は心礎はなく、心柱は初層天井から立てているのだが。行基に仮託したのは、行基の頃、この岩瀬あたりに仏教が伝わったということではなかろうか。近くには新治郡衙跡があり、その周辺には金堂、塔二基が廻廊に囲まれた新治廃寺跡などが点在する。いずれも平地寺院であった。山に上がり山岳寺院の発生を、賢栄は慈覚大師に仮託する。山上の塔の出現となったか否かはわからないが。
三重塔の相輪擦管に「多賀谷前下総守朝経」の名が残る。多賀谷氏は結城家の宿老であったが、朝経の時多賀谷氏の基礎を固めたと云われる。関東大乱の時期での塔再建である。供養でもあり、存在の宣言と云ってもいいのかも知れない。
仁王門
本堂
三重塔
(注)2019年3月撮影
しかし享保六年(1721)賢栄は「小山寺略縁起」に、慈恩寺同様、行基開創の伝承を誌し、三重塔の下には、行基の遺骨を納めたという。もっとも寛正六年(1465)建立の現三重塔は心礎はなく、心柱は初層天井から立てているのだが。行基に仮託したのは、行基の頃、この岩瀬あたりに仏教が伝わったということではなかろうか。近くには新治郡衙跡があり、その周辺には金堂、塔二基が廻廊に囲まれた新治廃寺跡などが点在する。いずれも平地寺院であった。山に上がり山岳寺院の発生を、賢栄は慈覚大師に仮託する。山上の塔の出現となったか否かはわからないが。
三重塔の相輪擦管に「多賀谷前下総守朝経」の名が残る。多賀谷氏は結城家の宿老であったが、朝経の時多賀谷氏の基礎を固めたと云われる。関東大乱の時期での塔再建である。供養でもあり、存在の宣言と云ってもいいのかも知れない。
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(注)2019年3月撮影