一葉一楽

寺社百景

大崎八幡宮 その2 ー コントラストの妙

2012-07-25 21:16:22 | 神社

長床、割拝殿といったほうがいいかも知れない。素木造である。和様、装飾は全くない、唐破風だけが目立つ。その先にある社殿は極彩色。今通り過ぎた長床は、記憶には残らない。

          

                         長床

社殿は二つの流れを形作る。長押がその境である。その下は漆黒、軒裏は色で埋め尽くされている。権現造、水平方向への流れ、に対し、上下でコントラストを強調する。1966年当時の大崎八幡宮(2月3日参照)ー部分修理、解体修理の前ーは云わば剥落の美であったが、彩色が復元されると、ここにもコントラストの妙があるが、政宗の意図がより明確になる。都と鄙である。

                  

          

(注)2012年6月撮影

権現造として大崎八幡宮までは木造建築の枠組の中にまだあるが、久能山東照宮以降は疑問と言わざるえない。

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甲斐善光寺 ー 撞木造への執着

2012-07-24 09:23:10 | 寺院

弘治元年(1555年)武田信玄善光寺本尊を甲斐国に移す。「甲斐国志」によれば永禄元年(1558年)山本勘介を普請奉行に甲斐善光寺を柱立、同8年入仏供養。開山は信濃善光寺の大本願である。寺宝のみならず別当栗田氏はじめ組織ごと移設した。この時本尊は既設の寺院もしくは仮堂に安置されていたのであろう、また別当の危うさもあり、移したと解釈したい。信玄の、自分の力への自信の表れであろう。

                 

 武田氏滅亡後、この甲斐善光寺は40年殆ど無住であったという。中興は増上寺の仰誉上人である。「甲斐国志」には三門が仰誉上人により万治2年(1659年)建立とある。この三門も、「宝暦四戌年(1754年)二月七日炎焼シテ諸堂烏有トナレリ」。五月には善光寺は、甲府代官所に材木拝借の願いを出し、再建への動きは早かった(「宝暦集成絲綸録」)。入仏は寛政二年(1790年)。棟札には寛政元年(1789年)上棟、寛政八年(1796年)竣工とあるようだが、上棟まで35年かかっている。また「仮堂並ニ本殿建立ニヨリ上ヨリ材木ヲ賜フコト両度、州人モ施入スル者多カリシト云」と多大な費用もかかっている。

       

                      山

                  

               

                      本堂

(注)2012年6月撮影

しかし何故前と比べ桁行で12m、信濃善光寺と比べても16m短いだけの、巨大な撞木造で再建したのであろうか。本尊は既になく、本尊のない善光寺参りには人が集まらぬであろうし、また上杉謙信が持ち出したと云われる本尊・寺宝は春日山城下の十念寺(浜善光寺)に、米沢に移ってからは城内の法音寺にと、既設の寺院に安置した。必ずしも撞木造は必要がない。当時甲斐は幕府直轄領であった。幕府の威信維持なのか。或いは甲斐善光寺の旧態維持といった強い意向があったのかも知れない。

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清白寺 ー 甲斐禅宗興隆の残影

2012-07-15 22:24:49 | 寺院

足利尊氏の造立、開山は夢窓疎石、二世は清渓通徹ー夢窓の法嗣、入宋三十年、天竜寺・南禅寺の住持。仏殿は「開山営作ノ旧屋今ニ所存ナリ」と「甲斐国志」にある。今ある仏殿は墨書から応永22年(1415年)建立、しかしこの「甲斐国志」が編纂された文化11年(1814年)、どちらかというと梅と「諏訪水」で有名であったようだ。

         

          

              

                     仏殿

上屋は出組、扇垂木、裳階は平行垂木で疎垂木と簡略化。しかし間という間は花狭間の桟唐戸や花頭窓で埋めて装飾として使い、更には内部には彩色があるとのこと。禅宗の仏殿として、せめてもの華やかさを演出、精神的な充足感を感じる。言葉を換えれば世情不安定に背を向けていたともいえる。蘭渓道隆もそうであったが、夢窓疎石の一門も政治に積極的に関わり、決して無関心ではなかったし、室町幕府と鎌倉府の対立、鎌倉府内部の公方と管領の争いに甲斐国は巻き込まれていたのにも拘わらずにである。

              

                     本堂

(注)2005年5月撮影

 

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東光寺 ー 配流そして幽閉の寺

2012-07-08 22:45:09 | 寺院

「しばらく甲州に配流せらる然るところに北地の官役の人其外数多の土民までもみな道隆の流罪に仍て其地に逗留せらるるを幸なりと喜悦せり」と虎関師錬の「元亨釈書」にある。蘭渓道隆は負け惜しみの言葉を吐いている。「・・・返て荒狄に睦び狎ぬるてだてにしてこれ我道法を弘むる素意を満足せり天龍ここに意あるならし」と(恵空和解「通俗元亨釈書和解」)。東光寺はこの蘭渓道隆により文永年間(1264-1274年)に草創されたと「甲斐国志」にある。

                

今ある仏殿はこの時のものではない。しかしこの中に安置されている十二神将像の一体には弘長2年(1262年)の墨書があり、道隆が請来したと云われている(「甲斐国志」)。この小型の仏殿、違和感があるのは裳階部分の窓であろう。寛永6年(1629年)の修理で替えられた可能性はあるが。また上屋は扇垂木ではなく平行垂木であるところなども意味あり気である。基壇も低く、道隆の頃には禅宗様ではなく、宝形の釈迦堂がたっていたのでは、また道隆がはじめて甲州に禅宗を齎したのかも知れない。ちなみに工藤圭章(「組物ゆたかな禅宗仏殿」不滅の建築7)によれば天文7年(1538年)の建築である。武田信虎の寄進かも知れない。信玄がその子義信、そして諏訪頼重が幽閉したのも因縁か。

             

                

(注)2012年6月撮影

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