弘治元年(1555年)武田信玄善光寺本尊を甲斐国に移す。「甲斐国志」によれば永禄元年(1558年)山本勘介を普請奉行に甲斐善光寺を柱立、同8年入仏供養。開山は信濃善光寺の大本願である。寺宝のみならず別当栗田氏はじめ組織ごと移設した。この時本尊は既設の寺院もしくは仮堂に安置されていたのであろう、また別当の危うさもあり、移したと解釈したい。信玄の、自分の力への自信の表れであろう。
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武田氏滅亡後、この甲斐善光寺は40年殆ど無住であったという。中興は増上寺の仰誉上人である。「甲斐国志」には三門が仰誉上人により万治2年(1659年)建立とある。この三門も、「宝暦四戌年(1754年)二月七日炎焼シテ諸堂烏有トナレリ」。五月には善光寺は、甲府代官所に材木拝借の願いを出し、再建への動きは早かった(「宝暦集成絲綸録」)。入仏は寛政二年(1790年)。棟札には寛政元年(1789年)上棟、寛政八年(1796年)竣工とあるようだが、上棟まで35年かかっている。また「仮堂並ニ本殿建立ニヨリ上ヨリ材木ヲ賜フコト両度、州人モ施入スル者多カリシト云」と多大な費用もかかっている。
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山門
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本堂
(注)2012年6月撮影
しかし何故前と比べ桁行で12m、信濃善光寺と比べても16m短いだけの、巨大な撞木造で再建したのであろうか。本尊は既になく、本尊のない善光寺参りには人が集まらぬであろうし、また上杉謙信が持ち出したと云われる本尊・寺宝は春日山城下の十念寺(浜善光寺)に、米沢に移ってからは城内の法音寺にと、既設の寺院に安置した。必ずしも撞木造は必要がない。当時甲斐は幕府直轄領であった。幕府の威信維持なのか。或いは甲斐善光寺の旧態維持といった強い意向があったのかも知れない。