一葉一楽

寺社百景

永観堂 ー 楓樹林の中の道場

2012-11-26 09:54:08 | 寺院

禅林寺である。「三代実録」元慶元年の条に「公田四町施入禅林寺、以太上天皇(清和)御願仏堂建彼寺中、地勢窄隘也」とある。山裾にへばりつくように、方丈、御影堂、阿弥陀堂が渡廊で繋がれ、高みに登るように建っている。総門から中門まで、緩衝地帯を置くかのように距離がある。「花洛名勝図会」では「一円の楓樹林にして、紅葉の頃は殊に美観なり」と表現する。

                 

                                                          中門

「応仁記」に、応仁元年(1467年)九月十八日のことであるが、「洛中洛外の物取悪党乱れ入りて、南禅寺を焼取り、粟田口には花頂青蓮院等の諸門跡、北は元応寺岡崎の諸寺院家なり」とある。赤松勢が南禅寺の裏山、岩倉山にはった陣に、山名・畠山勢が攻撃した時である。この時禅林寺全山焼失。元応寺は、「今、寺は絶ゆ」(天和二年(1682年)刊の「雍州府志」)。禅林寺は明応六年(1497年)後土御門天皇により再建されたという。但し今には残らない。幕末元治元年(1864年)刊の「花洛名勝図会」では講堂、学寮、行場と道場として機能していたようである。證空上人に始まる浄土宗西山派らしいと云える。

                  

「祖師堂」が「御影堂」に変わった時、南面から西面となり、規模も大きくなったのは大正に入ってからである。禅林寺が真言から浄土宗に変わった時以来の変化があったのではないかと見えるが、如何。

                    

                        御影堂

                  

                      本堂(阿弥陀堂)

(注)2011年9月撮影

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住吉大社 ー 神と人との宴の場

2012-11-18 16:43:30 | 神社

同じ大嘗祭を起源に持つと云われている伊勢神宮と住吉大社であるが、演出された荘厳さと解放感ある明るさと両極をなす。住吉大社は海岸古墳の前方部に祀られ、住之江の津に入るふねの目標となっていたようだが、何故大嘗祭なのか。神功皇后との関連が云われているが(稲垣栄三「原色日本の美術 神社と霊廟」小学館 1977年)、住吉が忍熊王の拠点であったことを考えると。今少し踏み込め忍熊王との皇位継承の争いにあるのではないだろうか。

創建時期は不詳。社殿造営は、鎌倉ー室町で成立した「興福寺略年代記」で天平勝宝元年(749年)、「一代要記」では天平宝字ニ年(758年)、平安末期成立の「伊呂波字類抄」(「古事類苑」から)では天平神護元年(765年)と、いずれも大嘗祭が確立したと思われる時期の後である。正史では式年造替への言及である。「日本後紀」に「弘仁三年(812年)・・・神祇官言、住吉香取鹿嶋三神社、隔二十箇年一旨改作」と。

                 

祭神、表筒男、中筒男、底筒男の住吉三神と神功皇后、ごとに一本殿を構える。荒魂を祀ったといわれる長門住吉神社、また同じ住吉造の筑紫住吉神社では住吉三神をまとめて一殿に祀る。「古事記」にしろ「日本書紀」にしろ別々に顕れているのではないので、それぞれに本殿を構える根拠がないような気がするのだが。更にその配列であるが、納得できる説明は得難い。

   

                   

拝殿、第一本殿のみ、その拝殿は桁行五間で、他は三間である。第一本殿の前庭は他と比べ広く、「摂津名所図会」に見られるように、大正以前は透塀で囲まれていたようである。「住吉太神宮諸神事次第」に「当時幣殿未作之間、莚上円座敷之・・・」等々あり、もともとは、拝殿はなく本殿のみであったのであろうが、先ず第一本殿にのみ拝殿を付加したのかも知れない。割拝殿であることも、古来からの、拝殿がない時からの、神事の動線を維持する上不可欠であったのであろう。また住吉大社の拝殿には向拝をつけるが、摂社である大海神社では向拝を設けない。拝殿の有無は神と人との関係の変化、神に対する見方の変化と言えないこともない。

                   

                     摂社 大海神社

(注)2012年10月撮影

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赤坂氷川神社 ー 吉宗の緊縮政策

2012-11-07 11:05:42 | 神社

享保7年(1722年)に制定された上米の制は享保16年(1731年)に廃止された。幕府財政が回復したためである。徳川吉宗が家重の産土神として赤坂氷川神社を新築・造営し上棟したのは享保15年(1730年)と財政にメドがついてからであろう。「御府内備考続編」によれば、奉行は老中水野和泉守忠之、大工棟梁は村松石見棟明(「続編」では「松村」とある)でれっきとした公儀普請である。村松石見は同じ権現造の根津神社、家宣の産土神、の村松淡路の流れか。

                                      

                                   

(注)2012年10月撮影

文政11年(1828年)完成の「御府内備考続編」では桁行本殿五間、幣殿二間、本殿二間とある。この後の増築であろうか、脇幣殿を現在は付ける。拝殿の軒唐破風の向拝は小振りで、また疎垂木、さらに装飾も少なく倹約に徹している。緊縮政策では、余程の工夫がなければ建築の発展はないことの証であろう。

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