禅林寺である。「三代実録」元慶元年の条に「公田四町施入禅林寺、以太上天皇(清和)御願仏堂建彼寺中、地勢窄隘也」とある。山裾にへばりつくように、方丈、御影堂、阿弥陀堂が渡廊で繋がれ、高みに登るように建っている。総門から中門まで、緩衝地帯を置くかのように距離がある。「花洛名勝図会」では「一円の楓樹林にして、紅葉の頃は殊に美観なり」と表現する。
中門
「応仁記」に、応仁元年(1467年)九月十八日のことであるが、「洛中洛外の物取悪党乱れ入りて、南禅寺を焼取り、粟田口には花頂青蓮院等の諸門跡、北は元応寺岡崎の諸寺院家なり」とある。赤松勢が南禅寺の裏山、岩倉山にはった陣に、山名・畠山勢が攻撃した時である。この時禅林寺全山焼失。元応寺は、「今、寺は絶ゆ」(天和二年(1682年)刊の「雍州府志」)。禅林寺は明応六年(1497年)後土御門天皇により再建されたという。但し今には残らない。幕末元治元年(1864年)刊の「花洛名勝図会」では講堂、学寮、行場と道場として機能していたようである。證空上人に始まる浄土宗西山派らしいと云える。
「祖師堂」が「御影堂」に変わった時、南面から西面となり、規模も大きくなったのは大正に入ってからである。禅林寺が真言から浄土宗に変わった時以来の変化があったのではないかと見えるが、如何。
御影堂
本堂(阿弥陀堂)
(注)2011年9月撮影