「雍州府志」には「吉田春日の社」と書かれ「此の社と南都春日の社と、同体たり。貞観年中(859-877)、中納言藤原の山蔭の卿、焉を建つ。」とある。卜部氏はこの社の預であった。吉田兼煕の時、永和四年(1378)足利義満が室町第に移ったことから、それまで名乗っていた室町を憚って、社務を務める吉田を家名とした。吉田家は神祇伯白川家のもと神祇大副として続く。しかし応仁二年(1468)七月四日「吉田社炎上拂地、西方所為」(「大乗院日記目録」)、応仁の乱である。
「親長卿記」文明七年(1475)には「近年建立斎場所」とあり、この頃には、吉田山麓に再興したようである。その後神楽岡山上に遷座、同じ「親長卿記」文明十七年四月の条に「件斎場所自御臺近日再興、造営神楽岡上」とあり、さらに「六角神殿也、勧請諸神、此外神宮内外宮別御座、又諸国諸社在別」と現在と近い姿であったことが知れる。今の大元宮は江戸開府の前年慶長六年の、吉田兼俱の曽孫兼見が吉田家当主の時の造営である。兼見の弟梵舜の日記「舜旧記」に「秀頼御母儀ヨリ被仰出故悉造営也」とある。兼見はさらに神祇官の八神殿を本殿の背後に遷座している。天皇の祭祀権が吉田家に取り込まれた瞬間である。これが平田篤胤に「そのかみ何の岡とか云に有たる。観音の八角堂を。吾が社地に引て。それを神武天皇以来の斎場所で。やがて八神殿ぞと。誣偽り。」と云わせる。斎場所の完成は吉田神道の公的性格の達成を意味する。
吉田神社
「斎場トハ内清浄ノ道場ト云ふ」と吉田兼俱は「唯一神道名法要集」で云う。大元宮を中心に、日本国中総摂社(三千六十三神吉田家之勧請 「花洛名勝図会」)、背後には内外宮と神祇官八神殿がその周りを囲む。八神殿今はない。明治五年(1872)皇居に皇霊殿・神殿完成に伴い遷座した。延宝九年(1681)黒川道祐は「東西歴覧記」で「八角壇ノ後ノ間ハ、卜部家神道執行ノ所ニテ神拝ノ間ナリ」と八神殿、それぞれ拝殿、今はない、があるとは云え内外宮を後に八角壇中央の心柱、「元本宗源」の神国常立尊であろうか、に向かって神祇を行った。千木は内削ぎ・外削ぎが共存し、堅男木は、角材二本を二組、宝珠を挟んで三本重ねの丸材を三組と前例のない特異な形をとる。また天皇の宸翰を額に、時の権力者の書を額にと、また伊勢神道の取り込みと、大元宮の権威を高めることに精力的であったことが窺える。兼倶にとって大元宮は神道界統一の象徴であったが、饒舌な兼倶は大元宮については口を開かない。
大元宮
(注)2021年10月撮影
岡田荘司「吉田兼俱と吉田神道・斎場所」国立歴史民俗博物館研究報告 第157集 2010年
福山敏男「中世の神社建築」日本の美術129 1977年
「親長卿記」文明七年(1475)には「近年建立斎場所」とあり、この頃には、吉田山麓に再興したようである。その後神楽岡山上に遷座、同じ「親長卿記」文明十七年四月の条に「件斎場所自御臺近日再興、造営神楽岡上」とあり、さらに「六角神殿也、勧請諸神、此外神宮内外宮別御座、又諸国諸社在別」と現在と近い姿であったことが知れる。今の大元宮は江戸開府の前年慶長六年の、吉田兼俱の曽孫兼見が吉田家当主の時の造営である。兼見の弟梵舜の日記「舜旧記」に「秀頼御母儀ヨリ被仰出故悉造営也」とある。兼見はさらに神祇官の八神殿を本殿の背後に遷座している。天皇の祭祀権が吉田家に取り込まれた瞬間である。これが平田篤胤に「そのかみ何の岡とか云に有たる。観音の八角堂を。吾が社地に引て。それを神武天皇以来の斎場所で。やがて八神殿ぞと。誣偽り。」と云わせる。斎場所の完成は吉田神道の公的性格の達成を意味する。
吉田神社
「斎場トハ内清浄ノ道場ト云ふ」と吉田兼俱は「唯一神道名法要集」で云う。大元宮を中心に、日本国中総摂社(三千六十三神吉田家之勧請 「花洛名勝図会」)、背後には内外宮と神祇官八神殿がその周りを囲む。八神殿今はない。明治五年(1872)皇居に皇霊殿・神殿完成に伴い遷座した。延宝九年(1681)黒川道祐は「東西歴覧記」で「八角壇ノ後ノ間ハ、卜部家神道執行ノ所ニテ神拝ノ間ナリ」と八神殿、それぞれ拝殿、今はない、があるとは云え内外宮を後に八角壇中央の心柱、「元本宗源」の神国常立尊であろうか、に向かって神祇を行った。千木は内削ぎ・外削ぎが共存し、堅男木は、角材二本を二組、宝珠を挟んで三本重ねの丸材を三組と前例のない特異な形をとる。また天皇の宸翰を額に、時の権力者の書を額にと、また伊勢神道の取り込みと、大元宮の権威を高めることに精力的であったことが窺える。兼倶にとって大元宮は神道界統一の象徴であったが、饒舌な兼倶は大元宮については口を開かない。
大元宮
(注)2021年10月撮影
岡田荘司「吉田兼俱と吉田神道・斎場所」国立歴史民俗博物館研究報告 第157集 2010年
福山敏男「中世の神社建築」日本の美術129 1977年