一葉一楽

寺社百景

安楽寺(上田) ー 宋で見た風景

2016-01-14 12:22:05 | 寺院
安楽寺八角三重塔の使用部材の伐採年代は正応二年(1289)であった(安楽寺HP報道資料2004.11、奈良文化財研究所概要2005「2004年度事業の概要」)。鎌倉幕府の連署であった北条義政が塩田荘に遁世したのは建治三年(1277)、弘安四年(1282)には同地で没している。正応二年当時の塩田城の当主は子の国時であった。
安楽寺の開山は樵谷惟僊とされているが、安楽寺はそれ以前も安楽寺として存在していたが、禅寺としての開山として、義政が建長寺首座であった惟僊を招聘したのであろう。惟僊は義政没後安楽寺を辞した(小松寿治「樵谷惟僊の動向について」駒澤史学58 2002.3)。正応二年当時は惟僊が帰朝時随伴してきた宋僧の二世の幼牛恵仁であろう。
鎌倉建長寺創建時華厳塔も建立された。伽藍の奥まったところに建てられ、五重塔であったと推定されている。円覚寺もまた華厳塔として三重塔が建てられた。恵仁もまた華厳塔を考えたのであろう。宋代の塔の平面は八角形が多かった。宋の風景が念頭にあったのであろうか。

塩田平の支配は北条氏が滅んだあと、村上氏(代官福沢氏)そして武田氏に代わる。真田氏が上田城に入り、塩田平は寂れた。戦乱の中で安楽寺も衰退、天正八年(1580)頃高山順京が入山、下級武士・商人に広まっていた曹洞宗として再興する。順京は真田昌幸から曹洞宗信綱寺の寺役免除の判物を受けており、この安楽寺入山も昌幸の命令であったかも知れない。










(注)2015年11月撮影 ⒸKanju

Anraku-ji three-storied pagota is one of the oldest existing zen-sect style architecture. Its building material was felled down in 1289 determined by using dendrochronology. At that time Yogyu Enin had succeeded to the founder of Anraku-ji, Shokoku Isen. Enin came from Song China would participate in building the pagota. An octagonal pagota was quite common in Song Dynasty. He might bring to mind scenery in Song. Song-style pagota rather than zen-sect style. The deep eave overhangs and concave curves of the shingled-roof, however, give taste of Japan to the pagota. In this sense, Anraku-ji three-storied pagota is the only octagonal pagota in Japan. Its influence didn't spread because Shiota became to be a part of country, as the relationship with Kanakura had decreased.


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