一葉一楽

寺社百景

室生寺 ー 弘法大師そして桂昌院・隆光の影

2012-03-27 12:34:32 | 寺院

「天台小止観」(関口真大訳注、岩波文庫)に「静処に閑居せよ」とあり、「一には深山なり・・・。二には・・・。聚落を離るること極めて近きも三里・・・。三には白衣の舎処に遠き清浄の伽藍の中なり。」と三処を挙げる。創建当時も現在も余りこの状況は、二を除けば大きくは変わっていないだろう。金堂は入母屋、弥勒堂も南向き、五重塔は直線が強くでた板葺、内部には五智如来も祀られていない、まるで相輪�哲。白衣の参拝を拒否するような伽藍であったようである。興福寺といった南都の大寺の中に、原点回帰の動きがあり山岳仏教のさきがけになったのでは。

                  

本堂(潅頂堂)の前縁に桂昌院の紋が入った香炉がある。今の姿、女人高野となった寄進の証である。すでに五重塔は檜皮葺、弥勒堂も西向になっていたが、この時大きく変わったのは金堂である。向拝が付けられ懸造とし、縋破風のついた寄棟となった。微妙な、柔らかな曲線で屋根が構成され、まさに女人高野の完成である。江戸時代の感覚も捨てたものではない。

         

                            金堂

                 

                        本堂

                 

                       五重塔

(注)2010年8月撮影

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西大寺 ー 興隆正法・利益有情の場

2012-03-16 13:33:41 | 寺院

創建の幸謙天皇、中興の叡尊の名が、西大寺の歴史には欠かせない。もっとも創建時の面影は東塔の跡だけであろうか。叡尊が西大寺に入った時は、「荒廃先年に過ぎ、言語の及ぶ所にあらず」の状態であった。物理的にも精神的にもである(細川涼一訳注「感身学正記」)。

               

               東塔跡と本堂

 叡尊の再興は、四王院正面の礼盤上で最勝王経を転読したとは言え、創建時の西大寺の再興ということではない。あくまで戒律復活の場の確保であったようだ。しかし「大和名所図会」挿絵は叡尊再興の伽藍ではない。

               

               四王堂

裳腰を大きく張り出した天平風の四王堂が延宝2年(1674年)の造営であるのをはじめとして、本堂は文化元年(1804年)に仮堂を廃しての造営、愛染堂は移築と、真言律宗の総本山としての体裁を保ってきたようである。それは元禄2年(1689年)の仮堂(?)の修理棟札にあるように、西大寺の末寺全体での支援、そして多くの大工棟梁の力によるところが大きい。形を意識しているのは四王堂のみで、あとは人を多く収容できる場を念頭においているかの建物で、叡尊の思想が生き続けているかのようである。(奈良六大寺大観 「西大寺」)。

            

           本堂                   愛染堂

一寸場違いを思わせるのは鐘楼、摂津多田院からの移築とのこと。多田院は叡尊とも関係のある寺院であったが、明治になって多田神社となった。鐘楼は多分その時に移築されたのでは。叡尊はここでも生きている。

                     

                     鐘楼

(注)2010年8月撮影

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法華寺 ー 失われた天平

2012-03-02 00:05:44 | 寺院

奈良の寺は平城京遷都時の建築ラッシュ、そして南都復興の鎌倉時代、桃山から江戸初期にかけてのブームがあったといえよう。このブームに乗り遅れた寺は消え、跡のみを残すことになるか、寺域を狭くするかであった。法華寺は創建後、昌泰元年(898年)には「扶桑略記」にあるように、宇多上皇をして「毎見破壊之堂舎。弾指嘆息」させ、建久2年(1191年)実叡の「建久御巡礼記」にあるように「棟毀テ甍アラワニ壇崩ツレテ扉傾二ケリ。春ノ朝雨不止。秋ノ暁キ風サワルナシ」との状態であった。淀殿の発願による再建のときには、叡尊再興の伽藍であろうか、それも堂一宇塔一基となっていた(和州旧跡幽考」)。今残るのはこの慶長6-7年(1601-2年)、片桐且元を奉行にして再建された本堂、南門、鐘楼である。天平の面影は全くない近世建築である。

       

                           南門

                  

                  鐘楼

豊臣秀頼による、後ろには淀殿がいるであろうが、寺社の再建、修理は100件以上だろう。少なくとも明治初めまで維持できたのは、この寄与が大きい。一方この時期は建築ブームである。まずは木材の調達が難しい。そして100件を越える再建・修理である。資金にも限度がある。奉行としての片桐且元は簡素を旨とせざるを得なかったのであろう。本堂には古材を使い、装飾は最低限といったように。鐘楼は、格式と費用のトレードオフの結果か、袴腰のみをとり、縁、腰組を廃しバランスをとった類例のない形となった。如何にも豊臣、徳川の間に入って苦労した片桐且元らしい。

光明皇后の伝説は十一面観音とから風呂に残る。どの時代でも伝説を形として残そうとするものらしい。から風呂は明和3年(1766年)の建築とのことであるが、禅寺の浴室を模したかのようである。天平は何処に?

                 

(注)2011年1月撮影

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