「天台小止観」(関口真大訳注、岩波文庫)に「静処に閑居せよ」とあり、「一には深山なり・・・。二には・・・。聚落を離るること極めて近きも三里・・・。三には白衣の舎処に遠き清浄の伽藍の中なり。」と三処を挙げる。創建当時も現在も余りこの状況は、二を除けば大きくは変わっていないだろう。金堂は入母屋、弥勒堂も南向き、五重塔は直線が強くでた板葺、内部には五智如来も祀られていない、まるで相輪�哲。白衣の参拝を拒否するような伽藍であったようである。興福寺といった南都の大寺の中に、原点回帰の動きがあり山岳仏教のさきがけになったのでは。
本堂(潅頂堂)の前縁に桂昌院の紋が入った香炉がある。今の姿、女人高野となった寄進の証である。すでに五重塔は檜皮葺、弥勒堂も西向になっていたが、この時大きく変わったのは金堂である。向拝が付けられ懸造とし、縋破風のついた寄棟となった。微妙な、柔らかな曲線で屋根が構成され、まさに女人高野の完成である。江戸時代の感覚も捨てたものではない。
金堂
本堂
五重塔
(注)2010年8月撮影