「江戸名所図会」に挿絵が載っている。市でも開かれているのであろうか、境内には店が立ち並び賑わいを見せている。荏原郡奥沢新田村は「草莽の地なりしかと、寛文二年(1662年)より新墾して一村と・・・」なったところである。里正七左衛門が、村の一郭、吉良氏の塁跡を寺地として認められたのが寛文九年(1669年)、多分寺壇制の上での寺であろう。
仁王門
開山は珂碩。寛文七年(1667年)深川霊厳寺で丈六の阿弥陀坐像九体を完成させ、翌八年越後村上藩榊原家に請われ泰叟院(今の浄念寺)に移る。村上で造像したのか否かは不明だが、浄念寺には建て替えられた土蔵造りの本堂には、丈六の阿弥陀坐像が安置されている。七左衛門の念願が叶い、浄真寺創建はその十年後の延宝六年(1678年)である。九品仏も霊厳寺から珂碩の手許に戻る。九品仏は大風で倒れるような草堂に置かれたようである。
本堂 三仏堂
浄真寺は城跡であることを生かし、九品仏を中心とした伽藍配置である。三仏堂は本堂と向かい合い、本堂の釈迦如来は西に阿弥陀像を拝する形をとる。従って仁王門から入って、真直ぐには三仏堂の一つ、下品堂である。現在の三仏堂は珂碩の弟子、河内安福寺の珂憶の建立である。同じ河内の大工の手になる。珂憶は尾張徳川光友の帰依を受け資金には困らなかったのであろう。しかし三仏堂、化粧屋根裏、疎垂木、舟肘木と、まさに九品仏の簡素な安置場所との感である。今の本堂の前身も元禄11年(1698年)上棟で、珂憶建立であろう。珂碩は整備された浄真寺を見ることはなかった。
(注)2013年3月撮影