一葉一楽

寺社百景

浄真寺 ー 城跡の九品仏

2013-03-29 14:33:20 | 寺院

「江戸名所図会」に挿絵が載っている。市でも開かれているのであろうか、境内には店が立ち並び賑わいを見せている。荏原郡奥沢新田村は「草莽の地なりしかと、寛文二年(1662年)より新墾して一村と・・・」なったところである。里正七左衛門が、村の一郭、吉良氏の塁跡を寺地として認められたのが寛文九年(1669年)、多分寺壇制の上での寺であろう。

                 

                     仁王門  

開山は珂碩。寛文七年(1667年)深川霊厳寺で丈六の阿弥陀坐像九体を完成させ、翌八年越後村上藩榊原家に請われ泰叟院(今の浄念寺)に移る。村上で造像したのか否かは不明だが、浄念寺には建て替えられた土蔵造りの本堂には、丈六の阿弥陀坐像が安置されている。七左衛門の念願が叶い、浄真寺創建はその十年後の延宝六年(1678年)である。九品仏も霊厳寺から珂碩の手許に戻る。九品仏は大風で倒れるような草堂に置かれたようである。

       

             本堂                    三仏堂

浄真寺は城跡であることを生かし、九品仏を中心とした伽藍配置である。三仏堂は本堂と向かい合い、本堂の釈迦如来は西に阿弥陀像を拝する形をとる。従って仁王門から入って、真直ぐには三仏堂の一つ、下品堂である。現在の三仏堂は珂碩の弟子、河内安福寺の珂憶の建立である。同じ河内の大工の手になる。珂憶は尾張徳川光友の帰依を受け資金には困らなかったのであろう。しかし三仏堂、化粧屋根裏、疎垂木、舟肘木と、まさに九品仏の簡素な安置場所との感である。今の本堂の前身も元禄11年(1698年)上棟で、珂憶建立であろう。珂碩は整備された浄真寺を見ることはなかった。

             

               

(注)2013年3月撮影

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秋篠寺 ー 調伏と鎮魂

2013-03-22 10:01:36 | 寺院

奈良時代の建築を思わせる本堂の外観、そして頭部が乾漆と天平の伎芸天、そして秋篠寺と云う名。秋篠寺を誤解するのには充分である。「続日本紀」光仁天皇宝亀十一年(780年)の条に「封一百戸永施秋篠寺」とあり、創建はそれ以前であろう。東西両塔を備え、金堂、講堂と、そして薬師如来を本尊とする、薬師寺と似た伽藍であったようだ。その伽藍で桓武天皇の五七斎が行われたのは大同元年(806年)である。また嵯峨天皇の弘仁三年(812年)にも「封一百戸施入」と見える。土師氏(秋篠氏)との関係からであろう。「秋篠寺縁起」(古事類苑)によれば、保延元年(1135年)「一山既焦土、稍得以奉出於諸堂之尊像、且防助講堂一宇」となり、その復興した形が現状である。

                 

                   東塔跡礎石

秋篠寺の性格が変わったのは、焼失以前の承和七年(840年)常暁が法琳寺で大元帥御修法を始めてからであろう。「大元明王感得之勝地」として、御香水と壇土を用意するのが秋篠寺の役であった。この「大元帥法式」は朝敵調伏・鎮護国家を目的とする。境内にある大元帥明王像を祀る大元堂があるが、それが、秋篠寺の表の姿なのである。鎌倉時代の復興は香水閣の再建と、本尊薬師如来を新造し安置するために(壇土をその座下から採取するため?)、残った講堂を修補するだけで十分であった。外観はそのままに、小屋組を当時の最新技術で、ということであろうか。

                

           

                     本堂

再建後の秋篠寺は寺領の確保・拡大に努める。西大寺との争いである。極めて攻撃的であった(もっとも西大寺側の史料しか残っていないようだが。 参照:佐藤信編「西大寺古絵図の世界」東京大学出版会 2005年)。和歌や俳諧に詠まれる秋篠とは思えない。

八所御霊神社は秋篠寺の鎮守であった。ともに、藤原氏の内部抗争に発端のある御霊信仰が背景にあるようである。八所御霊神社社殿は春日大社三十八所神社本殿の旧殿の移築と云われているのも、うなずける。もっとも八柱の御霊を祀るが、土師氏ゆかりの寺ということを考えると、早良親王の鎮魂がきっかけであったのであろう。

                 

                  八所御霊神社

(注)2013年1月撮影

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不退寺 ー 薬子の変余馨

2013-03-12 10:33:49 | 寺院

「三代実録」に真如が収公した平城天皇の内親王の土地を不退、超昇両寺に施捨するよう上表したと書かれている。真如は渋澤龍彦の遺作「高丘親王航海記」の主人公のモデルである。真如に関する史実と伝承に、夢と現実を交錯させた小説である。真如は、戦前は知らぬ人がいなかったであろうが、「平城太上天皇の子。弘仁廃皇太子也」。ここで不退寺が正史に初めて登場する。しかし在原業平或いはその父阿保親王の名は出てこない。上表文からは真如の関与が濃厚である。在原業平は同じ「三代実録」に「体貌閑麗、放縦不拘。略無才学、著作倭歌」とあり、私宅を寺とする気配がない。しかしいずれにしても平城天皇所縁の寺であることは間違いないようである。(参照:佐伯有清「高丘親王入唐記」吉川弘文館 2002年11月)。

                

「大乗院寺社雑事記」寛正五年(1464年)四月の条に「今夜不退寺炎上了」とある。平重衡による南都焼打から再興した伽藍が焼失したのであろうが、全山焼失ではなかったようである。南大門の棟札には、南都番匠の名とともに、正和六年(1317年)の年号が残る。多宝塔もこの頃の建立であろう。同時に別当法印顕昭の名がある。興福寺の援助があったのかも知れない。肝心の本堂の建立時期には、その様式から議論があるようである。14世紀であろうと15世紀であろうと、南都番匠の和様へのこだわりを見せる。本堂須弥壇横には片側には阿保親王坐像、今片方には伊勢大神宮を奉る。業平の伝承と関連づけられているようだが、西大寺叡尊の伊勢神道信仰の影響と考えたほうがいいようである。今の不退寺は真如の時代のものではなく、叡尊の時代のものなのである。

         

                                               

(注)2013年1月撮影

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