昭和三十年(1955)発行の「重要文化財丸岡城天守修理工事報告書」には「本城は三重(二重三階)、外観は上層望楼を形成し、通柱をもたず、初重は上層を支える支台を一成し、構架法、外容共に古調を伝え、我が国城郭建築史上現存天守中最古の遺構の一と称すべきもので、その価値は極めて大である」と,さらに「『越前名蹟考』には『本多淡路守重能に至って城地全く成る』とある」とし(注:「越前名蹟考」にはこの言葉はない。丸岡藩五代藩主なお有馬譽純編の「古今類聚越前国誌」に載せる。)「天正四年(1576)建立としても少しも不合理でないと思われる」と結論している。
なお、元文三年(1738)と跋文にある「越前名勝志」には、「柴田伊賀守勝豊天正四年〈1576)に是を築く」とのみで天守ことに触れていない。因みに作者の竹内寿菴は本多家の家臣であった。しかし正保城絵図の中の「越前国丸岡城之絵図」(正保四年(1647))には「天守三重高六弓四尺七寸」とあり幕府にも公認された天守として存在していた。
(注)2024年11月撮影
参考文献 丸岡城調査研究パンフレット 2017-2023 坂井市
なお、元文三年(1738)と跋文にある「越前名勝志」には、「柴田伊賀守勝豊天正四年〈1576)に是を築く」とのみで天守ことに触れていない。因みに作者の竹内寿菴は本多家の家臣であった。しかし正保城絵図の中の「越前国丸岡城之絵図」(正保四年(1647))には「天守三重高六弓四尺七寸」とあり幕府にも公認された天守として存在していた。
(注)2024年11月撮影
参考文献 丸岡城調査研究パンフレット 2017-2023 坂井市