一葉一楽

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閑話休題 - 丸岡城

2024-11-18 22:36:48 | 城郭
昭和三十年(1955)発行の「重要文化財丸岡城天守修理工事報告書」には「本城は三重(二重三階)、外観は上層望楼を形成し、通柱をもたず、初重は上層を支える支台を一成し、構架法、外容共に古調を伝え、我が国城郭建築史上現存天守中最古の遺構の一と称すべきもので、その価値は極めて大である」と,さらに「『越前名蹟考』には『本多淡路守重能に至って城地全く成る』とある」とし(注:「越前名蹟考」にはこの言葉はない。丸岡藩五代藩主なお有馬譽純編の「古今類聚越前国誌」に載せる。)「天正四年(1576)建立としても少しも不合理でないと思われる」と結論している。
なお、元文三年(1738)と跋文にある「越前名勝志」には、「柴田伊賀守勝豊天正四年〈1576)に是を築く」とのみで天守ことに触れていない。因みに作者の竹内寿菴は本多家の家臣であった。一方幕府は正保城絵図のうち「越前国丸岡城之絵図」(正保四年(1647))に「天守三重高六弓四尺七寸」と公認していた。改易された本多家はなにも語らず、次いだ有馬家は「城地全くなる」としたのと対照的である。
年輪年代法では天守床板木材の伐採年を一階を1581年(天正9年)、二階を1593年(天正21年)、三階を1578年(天正6年)また炭素14による測定では、幅が、一階の梁は古いもので、1575年(天正3年)ー1618年(元和4年)、側柱は1482年(文明14年)ー1546年(天文15年)、中央は1544年(天文13年)ー1582年(天正10年)。二階中央の柱は1563年ー1620年(元和6年)と同定されている(丸岡常調査研究パンフレット No.2, 2017)。既存の木材(既存の建物)をも利用し、寛永元年(1624)丸岡藩成立以降の早い時期に天守造営であろう。寛文九年(1669)に焼失した同じく望楼型であった福井城天守の小型版か。


  



 

 




(注)2024年11月撮影
参考文献 丸岡城調査研究パンフレット 2017-2023 坂井市
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大瀧神社 ー キッチュ

2024-11-17 19:37:49 | 神社
大瀧神社は日野川の東、四十八ケ村の鎮守であった。製糸業を生業とする今立五箇もその中に入る。その下御堂(里宮)が古くなり立替請負の要望が地元五箇村の大工四人から世話人三田村氏をとおし神主に出されたのは天保十一年(1841)であった。
重なり合う破風はシドニー・オペラハウスに似ているが、一度の設計変更を経て出来上がった。天保五年(1835)の「板地着色大瀧児大権現祭礼図絵馬」には建替前の本殿と拝殿が柄が描かれているが、その場での建替であれば充分余地があり、密接させて造営する必要はない。五間三間pan style="font-size:16px;">大瀧神社は日野川の東、四十八ケ村の鎮守であった。製糸業を生業とする今立五箇もその中に入る。その下御堂(里宮)が古くなり立替請負の要望が地元五箇村の大工四人から世話人三田村氏をとおし神主に出されたのは天保十一年(1841)であった。
重なり合う破風はシドニー・オペラハウスに似ているが、一度の設計変更を経て出来上がった。天保五年(1835)の「板地着色大瀧児大権現祭礼図絵馬」には建替前のo奥宮と同じ一間の本殿と石段下に桁五間梁三間の拝殿が描かれており、その場での建替であれば充分余地がある、密接させて造営する必要はない。拝殿を廃し本殿に密着させたのは、神社色を強めるとの意図であろうか。当初設計案で十分意図は達成しているが、現本殿は千鳥破風と唐破風の装飾的な屋根を付加し、脇障子を斜めにし、千木・鰹木を載せる。社殿彫刻は中国の故事を題材とする、国学ではなく儒教である。
氏子の反応は判らない。この江戸末期の風潮に受け入れる素地はあったのであろう。しかし屋根の上に屋根を重ねることは次の建て替えに採用されるだろうか、少なくとも今までのところ模倣はない。
















(注)2024年10月撮影
(参考文献)
1. 国京克己「大滝神社本殿及拝殿の普請経過と設計変更時期について」
       若越郷土研究66巻1号、2021.
2. 国京克己 「大滝神社社殿と柏原八幡宮社殿ー社殿の類似性と独創性」
       若越郷土研究68巻1号、2023.
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