春屋妙葩撰の「夢窓国師年譜」によれば、夢窓疎石が虎渓山に入ったのは正和二年(1313年)である。翌三年には観音閣を建てたとある。無際橋がかかる庭園もまた夢窓疎石の作と云われている。もっとも橋の中ほどにある亭舎は夢窓疎石とは思えないが、作庭を好むようになったのは、「山水景物天開図書之幽致」の虎渓山に誘発されたのであろう。不立文字がこの庭園の狙いであろうが、天竜寺では「年譜」貞和二年(1346年)「亀山十境」を定め、「教外別行之場」とする。「夢中問答」(佐藤泰舜校訂 岩波文庫)に「山水には得失なし、得失は人の心にあり」とは、夢窓疎石の美学であろうか。
無際橋
今残る観音堂は夢窓疎石のいう観音閣ではない。年輪年代法や放射性炭素年代測定から1460年頃建立の可能性があるとのことである(文化財建造物保存技術協会編「国宝永保寺開山堂及び観音堂修理工事報告書」2012年11月)。長録から寛正であろうか足利義政の頃である。嘉暦三年(1328年)「師在瑞泉。是歳造観音堂」と「年譜」にある。夢窓疎石にとって修行の場には庭園と観音堂が不可欠のようである。とすれば現存観音堂の華やかさは夢窓疎石のものではない。敢えていえば当初の観音閣は、開山堂の昭堂のようではなかったのか。いずれにしても建長寺や円覚寺のような厳密な伽藍を否定しているといえよう。
観音堂
開山堂は礼堂と祠堂を相の間で繋ぐ。八ツ棟造、権現造と似た平面を作るが、礼堂と相の間は同一面にあるが、祠堂は一段高くなっている。部材の年代測定結果では、祠堂の身舎部分は13世紀半ば、礼堂は14世紀前半と半世紀以上の時間差がある。祠堂は永保寺開創前の建物ということになる。開山堂建立にあたって、移築し、これに礼堂を相の間をもって同一空間としたのであろうか。
開山堂
(注)2013年9月撮影