住吉三神を祀る住吉神社は西、筥崎宮はそのやや北側の西北西を、博多湾を出る水路の方向を向く。筥崎宮は、主祭神を八幡大神に、神功皇后と玉依姫を配祀する。「延喜式神名帳」には「八幡大菩薩筥崎宮一座」とあり、三座とはなっていない。文永の役、元寇の襲来を描いた「八幡愚童訓」に「朱漆唐櫃奉移三所御体」と、この時には既に三座となっていたようだ。しかし三間社を連結し九間社となっていたかは分からない。元の脅威が現実化し、朝廷・幕府は寺社に「異国降伏」の祈禱をさせている折、文永二年(1265)焼失、九州探題が再興した時である。或いは遅れて大内持世の文明九年(1477)か。元の脅威が去り、九州北部の兵乱が一時的に収まった後である。即ち宗祇が「筑紫道記」(文明十二年)で「御殿の大なる事世に超え、しかも造営遠からで、玉を磨けり。末社などは半ばなるも侍り」と記した筥崎宮であろうか。(参照:「筥崎宮誌」筥崎宮社務所 1928、「重要文化財筥崎宮本殿修理工事報告書」筥崎宮 1967)。
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車寄せが外陣の左右延長線上に設ける。宇佐・石清水には見られない。同様なものが香椎宮・大宰府天満宮にあるように、この地方特有かとも思えるが、京都の八坂神社にもあり、一概には言えない。単に祭礼の便のためか。「八幡愚童訓」には元寇襲来の折、神輿に乗せずに避難したことを嘆いており、このことが、車寄せを設けたことの背景にあるかも知れない。内陣障壁に松を描き、平穏な雰囲気を演出しているのと対照的である。
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(注)2014年5月撮影
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車寄せが外陣の左右延長線上に設ける。宇佐・石清水には見られない。同様なものが香椎宮・大宰府天満宮にあるように、この地方特有かとも思えるが、京都の八坂神社にもあり、一概には言えない。単に祭礼の便のためか。「八幡愚童訓」には元寇襲来の折、神輿に乗せずに避難したことを嘆いており、このことが、車寄せを設けたことの背景にあるかも知れない。内陣障壁に松を描き、平穏な雰囲気を演出しているのと対照的である。
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(注)2014年5月撮影