一葉一楽

寺社百景

筥崎宮 ー 海へ向かう神々

2014-08-24 21:27:37 | 神社
住吉三神を祀る住吉神社は西、筥崎宮はそのやや北側の西北西を、博多湾を出る水路の方向を向く。筥崎宮は、主祭神を八幡大神に、神功皇后と玉依姫を配祀する。「延喜式神名帳」には「八幡大菩薩筥崎宮一座」とあり、三座とはなっていない。文永の役、元寇の襲来を描いた「八幡愚童訓」に「朱漆唐櫃奉移三所御体」と、この時には既に三座となっていたようだ。しかし三間社を連結し九間社となっていたかは分からない。元の脅威が現実化し、朝廷・幕府は寺社に「異国降伏」の祈禱をさせている折、文永二年(1265)焼失、九州探題が再興した時である。或いは遅れて大内持世の文明九年(1477)か。元の脅威が去り、九州北部の兵乱が一時的に収まった後である。即ち宗祇が「筑紫道記」(文明十二年)で「御殿の大なる事世に超え、しかも造営遠からで、玉を磨けり。末社などは半ばなるも侍り」と記した筥崎宮であろうか。(参照:「筥崎宮誌」筥崎宮社務所 1928、「重要文化財筥崎宮本殿修理工事報告書」筥崎宮 1967)。

  

車寄せが外陣の左右延長線上に設ける。宇佐・石清水には見られない。同様なものが香椎宮・大宰府天満宮にあるように、この地方特有かとも思えるが、京都の八坂神社にもあり、一概には言えない。単に祭礼の便のためか。「八幡愚童訓」には元寇襲来の折、神輿に乗せずに避難したことを嘆いており、このことが、車寄せを設けたことの背景にあるかも知れない。内陣障壁に松を描き、平穏な雰囲気を演出しているのと対照的である。

 



(注)2014年5月撮影
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住吉神社(筑前一之宮) ー 様式の継承

2014-08-08 10:50:59 | 神社
宗祇の「筑紫道行」に「楼門半ばは破れて、社壇も全からず。いかにと問えば、此十とせ余りの世の中の乱故と言へるも悲し」、文明十二年(1480)のことである(新日本古典文学大系「中世日記紀行集」岩波書店 1990年)。貝原益軒、元禄十六年(1703)の「筑前国続風土記」では「其後乱世となり、博多は戦争のちまたと成し故、祠官も所を去り、神領も没収せられ、御社もあれ、祭祀も絶やみ、残れる社人等も、郷里の土民となりぬ」とある。「慶長五年(1600)(黒田)長政君入国の始までは、わづかなる仮殿におはしましけるを・・・神殿を新に建立せらる」と続ける。元和九年(1623)のこと、住吉造で再建された。

 
  

宗祇の見た社殿が住吉造であったか否かは定かではない。また大内氏最後の当主義隆に社殿造営を請願した神官二人の念頭にあったのが住吉造であったのかも同様である。大内氏再建の長門住吉神社は西側一殿のみに住吉三神を祀るとはいえ、九間社流造である。神官たちは、大内義隆が筥崎宮を再建したのを聞き、住吉神社もと、思ったというのが、より現実的かも知れない。
「筑前国続風土記」に「長門摂津の住吉大神の本初」と云い、「此神の荒御魂は猶筑紫にあり、但和御魂は是墨江にあるのみ」と紹介する。ただ同じ住吉造とはいえ、二、三の相違点が目につく。一つは堅男木である。摂津が五本、筑前は三本である。今一つ鳥居である。摂津は所謂住吉鳥居で、角柱である。また本殿前にも鳥居を置く。これらは荒御魂と和御魂の差なのであろうか。或いは摂津住吉大社は文化七年(1810)造営だが造替遷宮を繰り返し原初の姿を伝えているという。「本初」といえ、遠慮しながら摂津を踏襲したのであろうか。
平唐門が末社稲荷神社の裏門のように、東口にある。昭和六十年(1985)南門の近くにあったのを移築したという。奥村玉蘭、文政四年(1821)刊の「筑前名所図会」を見ると、本殿・拝殿(現拝殿は昭和十年(1935)改築)を透垣で囲んでいる。その中門ともいうべき位置の門が平唐門に見える。

 唐門
(注)2014年5月撮影

            
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