一葉一楽

寺社百景

春日大社 ー 自然神から氏神へ

2013-01-21 09:33:46 | 神社

天平勝宝八歳(756年)の東大寺寺域を描いた「東大寺山堺四至図」に、御蓋山の麓に「神地」と記された場所がある。建物はない。現在の春日大社、廻廊の内を見ると、本殿は林檎の庭から見上げるような高みにある。無理やりに建物を建てたかのように見える。「続日本紀」に養老元年(717年)、宝亀八年(777年)に遣唐使が、御蓋山の麓で天神地祇に拝礼したとの記事がある。平城京の守護として御蓋山は捉えられていたのであろうか。養老元年の遣唐使の随員に阿倍仲麻呂がいる。「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」、望郷の歌にはもっと深い意味があるのかも知れない。

                                       

「春日社記」に「御造営 神護景雲二年(768年)預神官中臣殖栗連時風同秀行等奉行。御遷宮 光仁天皇御宇宝亀年中始也」と、中臣氏により本殿が造営されたことが書かれている。平城京の守護神が、藤原氏の繁栄とともに、その氏神へと変わった。しかし「続日本紀」天平勝宝二年(750年)に孝謙天皇「幸春日酒殿」と書かれ、この頃には社殿があったようである。しかし本殿はどうか分からない、自然神には本殿は必要ではないからである。

                                        

               

式年造替が行われたのは応永14年(1407年)からと云われており、文久3年(1863年)の現在の本殿が、その最後である。応永以前は仮殿遷宮そして正遷宮を繰り返している。創建から同じ様式で建てられていたのかは判らない。井桁に組んだ土台の上に建てるのは創建以来であろうが、千木が曲線と装飾的となっており、藤原氏繁栄とともに平安時代洗練されていったような気がする。

            

                     若宮神社

                

                    紀伊神社

(注)2012年10月撮影

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興福寺 ー 藤原四家の盛衰

2013-01-08 23:08:53 | 寺院

1.北円堂・南円堂・東円堂

「興福寺流記」(「奈良六大寺大観」岩波書店 1991年)に、北円堂は「養老五年(721年)。元明天皇。飯高天皇(元正天皇)。同心勅右大臣長屋王。為淡海公忌日。造立之」と書かれている。藤原四家の祖、藤原不比等の追善である。永承四年(1049年)、そして興福寺に壊滅的打撃を与えた治承四年(1180年)の平重衡による焼打ちで焼失(もう一回あるようだが。大岡實 建築雑誌1928年)。今の北円堂は承元二年(1208年)の再建である。創建は、法隆寺夢殿造営の天平11年(739年)よりは早く、再建が創建時を踏襲したものとすれば、八角堂はここから始まったのかも知れない。或いは再建時に夢殿を参考にした可能性も捨てきれない。

               

                

                  

                     北円堂

(注)2010年5月撮影

参考:法隆寺夢殿

           

(注)2010年8月撮影

南円堂の本尊は不空羂索観音である。「興福寺流記」によれば、もとは講堂にあったようである。延暦10年(791年)、藤原式家全盛の頃であろうか、式家良継の女である桓武皇后により講堂に安置された。「長岡右大臣内麿公、藤原氏のおとろえをなげきて、・・・不空羂索の観音の像を作りて安置せらる。されども、仏殿いまだ作るに及ばずして、・・・薨じたまひぬ。閑院贈太政大臣冬嗣公、先考の志を遂げんが為に、・・・弘仁四年(813年)に造華して、供養を遂げさせたまひけり」(「南都名所集」)。補陀羅、観音信仰に、春日大社第一殿の武甕槌命の本地を不空羂索観音とし藤原氏と関連付けしたところに、冬嗣のしたたかさが見える。西国三十三所観音霊場の第九番札所ということもあってか、焼失しても再建されてきた。享保二年(1717年)興福寺の中枢堂舎が焼失しても、他の堂舎が幕府の援助を受けられず再建できなかった時も、この南円堂だけが復興している。もっとも寛保元年(1741年)立柱、寛政九年(1797年)入仏供養と完成まで時間がかかっているが。権門寺院の興福寺ではなく、南円堂という別の寺院と考えたほうがいいのだろう。

                   

                                                 

                   

                            南円堂

(注)2009年9月撮影

今一つの八角円堂が興福寺にあった。東円堂である。「興福寺流記」に「八角宝形。中尊丈六不空羂索像。御願也」。待賢門院は閑院流北家藤原公実の女である。保延五年(1139年)建立、しかし「興福寺濫觴記」に「応永十五戌子年(1408年)己後退転」とある。「大和名所図会」では基壇と礎石だけが描かれている。そして今は県庁の駐車場である。15世紀には藤原氏或いは興福寺に、再建するだけの力が既になかったようである。庶民の手の届かぬところにあったからであろう。

2.東院仏殿院(東金堂・五重塔)

 「大乗院日記日録」応永18年(1402年)の条に、「春日ニ基塔、東金堂、五重塔、大湯屋□□等、焼失了」とある。その後東金堂は応永22年(1415年)に、五重塔は応永33年(1426年)に再建された。享保二年(1717年)正月、中枢伽藍が焼失も、東院の二棟は焼け残り今に残る。火災は興福寺の寺勢と密接な関係がある。寺勢が盛んな時に多く、衰退とともになくなったようにみえる。もっとも維持するという意識がなくなると、享保のような事態となる。

            

                           五重塔

                     

                  

                                                 

                       

                              東金堂

(注)2009年9月、2013年1月撮影

鎌倉・室町時代は大和一国を寺領としていたが、戦国時代を経て、秀吉・家康の時代には二万一千石となる。大きくなりすぎたために、時に応じた経営が難しかったのであろう。

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