一葉一楽

寺社百景

若狭彦神社・若狭姫神社 ー 唐人の社

2014-04-21 10:23:37 | 神社

例えば「日本紀略」長徳元年(995年)条に「若狭国言上。唐人七十余人到着当国。可移越前国之由」とある。この時「唐人」とは「北宋」である。伴信友がその「神社私考」で「本地垂迹の説によりて、造りたる謾説ども多くて、いとも穢はしく」といって全文を引用する「若狭国鎮守一二宮縁起」に、「其形俗体而如唐人乗白馬、今若狭彦大明神是也」と、また若狭姫大明神をも「唐人の如し」とある。伴信友は疑問を持っていたようだが、「縁起」は時の禰宜により天永二年(1111年)に書かれたもの、宋人が多く若狭に現れ、「唐人」に違和感を感じない頃である。若狭彦神社は霊亀元年(715年)、姫神社は養老五年(721年)創建と伝えるので、この「唐人」は「大陸からの」の意味であろう。

                  

                     

                  

                  

                        若狭彦神社

若狭彦神社の現本殿は文化十年(1813年)、若狭姫神社は享和二年(1803年)の造営である。隋神門、神門、本殿と軸線を直線にするところは同じである。また拝殿、昭和になってから、風害そして雪害で倒壊というところも似ている。一方で若狭彦神社本殿は女千木・堅男木があるのに対し、若狭姫神社にはない。また側面三間の内一間を前室にする若狭彦神社に対し、側面二間で庇を伸ばし前室等々、異なるところもある。鎌倉期に作成されたという「若狭国鎮守神人絵系図」では、末社であろうか春日造とみえる黒童子社と、正一位勲三等若狭彦大明神として、楼門、京都賀茂社本殿風の流造三間社が描かれている。千木・ 堅男木はない。正応元年(1288年)に鎌倉幕府が六波羅探題に一宮造営を命じているが、その時のものであろうか。前室付社殿は滋賀県に多い、その影響か(大上直樹「滋賀文化財だより」1989年)。とは云え「絵系図」の流れを汲むのは、若狭姫神社本殿であり、何故若狭彦神社の形となったのか疑問が残る。江戸末期の復古神道の流行が反映されているのであろうか。

                      

                  

                        若狭姫神社

(注)2013年11月撮影   

 

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若狭神宮寺 ー 神々との同居

2014-04-12 17:15:53 | 寺院

仁王門を通り、表門から入ると、祭場であろうか広場に出る。右手に本堂が観覧席のように構える。本堂の正面は志羅山を向き、背後には長尾山が控える。いずれもその神号掛軸が、本堂内陣に掲げられている。本堂は外陣・内陣を明確に別けた天台宗本堂の特徴を示す。この本堂は、天文14年(1545年)雷火で焼失後、若狭武田氏を傀儡とした朝倉義景によって、天文22年(1553年)に再建と伝わる。元亀三年(1572年)の日付のある義景の寺領安堵状も残る。今に残る「若狭国遠敷郡神宮寺縁起」(福井県史・資料編)は天文15年、焼けた本堂の再建を祈ってのことであろう。

                 

                        仁王門

                 

「縁起」は山岳信仰が発展、和銅七年(714年)には勅願寺となったとする。現本堂の裏手からは、官衙に使用された瓦も出土し、勅願寺であることを裏付ける。薬師如来を安置するも、鈴をもたらした「長尾明神」をも崇拝の対象としたようである。鈴は「仏道神道之宝器」として、神仏習合の象徴とされている。若狭彦命の本地を薬師如来、若狭姫命の本地を千手観音とした後のことである。天台本覚思想に染まった「縁起」である。

             

                  

                  

                          本堂

(注)2013年11月撮影

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