「拾遺都名所図会」には岩船寺は浄瑠璃寺の末院とある。浄瑠璃寺は嘗て西小田原寺と称せられていたが、この岩船寺は、西小田原寺と対をなす東小田原寺の一院であったとも云われている。今境内は狭隘の地にあって、東小田原寺の一院と云われれば、頷首し、そして三重塔は場違いと思わせる。岩船寺三重塔は初重の上に心柱を置き、内部には彩色した仏画が描かれ、須弥壇を置くという。嘉永元年(1848年)に前本堂が造営される前は、釈迦如来像を本尊としていたらしい。仏堂の役割を果たしていたのではなかろうか。
(注)2009年9月撮影
三重塔建立の嘉吉2年(1442年)は、室町幕府の内紛、土一揆と秩序は崩壊し、「下剋上」の風潮が蔓延していた時期であった。山城国の守護は当時京極持清であったが、歴代の守護職は、幕府内紛の当事者であり、岩船寺は興福寺の荘園の中にあったとはいえ、世情とは無縁であったとはいえない。その中での建立である。「求道者」たちの逃避の形であったのかも知れない。しかし「三重塔」そして「求道者」たちの経済的基盤は奈辺にあったのであろうか。
鎮守である白山神社が建立されたのも同時期である。春日社であれば当然のことなのだが、山岳信仰の象徴である白山社であるのは、まさに隠棲と修行の地であったことを表しているのではないか。今その末社である春日社は江戸時代の建築という。白山神社と同時期、室町時代にあったのか否か分からない。因みに浄瑠璃寺では先ず春日社で、遅れて白山社が祀られている。