一葉一楽

寺社百景

岩船寺 ー 塔に望むこと

2012-04-25 23:43:02 | 寺院

「拾遺都名所図会」には岩船寺は浄瑠璃寺の末院とある。浄瑠璃寺は嘗て西小田原寺と称せられていたが、この岩船寺は、西小田原寺と対をなす東小田原寺の一院であったとも云われている。今境内は狭隘の地にあって、東小田原寺の一院と云われれば、頷首し、そして三重塔は場違いと思わせる。岩船寺三重塔は初重の上に心柱を置き、内部には彩色した仏画が描かれ、須弥壇を置くという。嘉永元年(1848年)に前本堂が造営される前は、釈迦如来像を本尊としていたらしい。仏堂の役割を果たしていたのではなかろうか。

      

           

(注)2009年9月撮影

三重塔建立の嘉吉2年(1442年)は、室町幕府の内紛、土一揆と秩序は崩壊し、「下剋上」の風潮が蔓延していた時期であった。山城国の守護は当時京極持清であったが、歴代の守護職は、幕府内紛の当事者であり、岩船寺は興福寺の荘園の中にあったとはいえ、世情とは無縁であったとはいえない。その中での建立である。「求道者」たちの逃避の形であったのかも知れない。しかし「三重塔」そして「求道者」たちの経済的基盤は奈辺にあったのであろうか。

鎮守である白山神社が建立されたのも同時期である。春日社であれば当然のことなのだが、山岳信仰の象徴である白山社であるのは、まさに隠棲と修行の地であったことを表しているのではないか。今その末社である春日社は江戸時代の建築という。白山神社と同時期、室町時代にあったのか否か分からない。因みに浄瑠璃寺では先ず春日社で、遅れて白山社が祀られている。

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浄瑠璃寺 ー 山あいの浄土

2012-04-19 22:59:49 | 寺院

山の中に浄瑠璃寺はある。嘗ては奈良と近江を結ぶ、いわば幹線から一寸外れたところであった。平安貴族が隠棲した寺のような趣である。浄瑠璃寺、その名が意味するように薬師如来が本尊であったようである。この山間にも浄土信仰が入りこみ、阿弥陀如来が本尊にとって代わられる。。阿弥陀仏を対象として、その浄土を観想しようとする、極めて視覚的な世界である。興福寺の恵信(関白法性寺殿藤原忠通の子)が園池を造営、この頃の流行のようである。しかし平安貴族が造りあげた浄土庭園ではない、あくまで僧侶として「観無量寿経」、観仏三昧の場を実現させようとの意図であったのであろう。本堂は当然のことながら九体仏と僧侶だけの場所である。

                     

       

                 本堂

三重塔は治承2年(1178年)京都一条大宮からの移築、本堂も池も完成した後のことである。且つ本堂、九体仏を見下ろすように立つ。薬師如来の安置する場だけなのか、若干不可解ではある。

                    

                           三重塔

(注)2009年9月撮影

「雍州府志」、天和2年(1682年)には「今悉く廃壊す。九体弥陀の像の存する有り。故に世人、浄瑠璃寺の号を知らず直に九体仏と称するのみ」とある。天明7年(1787年)の「拾遺都名所図会」にも同様の記載がある。向拝を付加したのも江戸時代のことである。本堂の前からの礼拝となったのであろう。三重塔に安置された薬師如来も、浄土庭園としての園池も、庶民の視野の外である。しかし寺領もなく浄瑠璃寺が維持されてきたのは、この庶民の力であろう。

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高山寺 ー 失ったもの、残ったもの

2012-04-12 14:31:40 | 寺院

寺院には創建した、或いは再興した僧侶の個性が出てくるようである。空海ゆかりの建物をガムシャラに造営していった神護寺の文覚上人など、良い例であろう。直情径行の文覚に愛弟子のように思われ、だが一歩距離を措いた明恵上人の高山寺もその例に挙げられよう。今に残る「絹本明恵上人像」からのイメージであるが。

明恵上人止住のころの伽藍は「高山寺絵図」でほぼ概要は分かる。本堂東側に、阿弥陀堂、羅漢堂そして今の石水院であろう経蔵が並び、西側には三重塔、鐘楼、そして鎮守社が並ぶ。文明2年(1470年)の火災(「大乗院寺社雑事記」)、天文16年の細川晴元による焼打ち(神護寺・高山寺の裏、高雄山に城があったためである。「厳助往年記」)により明恵上人以来の伽藍は悉く壊滅したものの、「上人像」や「鳥獣戯画」等々の絵画、そして典籍などが残る。そして石水院である。

                

                

      

 (注)2009年9月撮影

「雍州府志」に「宝蔵の内、西の方、社有り。春日・住吉、両神の画像、有す」とある。この宝蔵が今の石水院か否か判らないが、今善財童子像が有る所に神像が掲げられ、その裏住宅様となっている所が経蔵であったと云われている。春日・住吉両神を安置したのは嘉禎元年(1235年)、明恵上人没後(貞永元年(1232年))のことである。とは云え「春日明神、時々影向、親り明恵に見えたもう」という。しかし明恵上人は東大寺で受戒した華厳宗の僧であった。また春日明神ということで、興福寺の僧が「一代一度、此の処に来たり、神像を開き之れを拝して法事を修す」。この石水院、神仏習合の典型から、明治22年(1889年)住宅に形を変え、場所を変え、今に残る。

   

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神護寺 ー 変わらぬ紅葉

2012-04-04 16:39:37 | 寺院

「秋に到りて楓葉、紅に染む。誠に三秋の奇観にして、三春、東山の桜花と一雙と称す」と黒川道祐の「雍州府志」にある。神護寺は今も昔も紅葉の名所であったようである。周山街道と清滝川が造る谷を挟んだ高雄山の山腹に神護寺はある。鎌倉時代には15棟を越える建物があったとは思えない狭さである。

                  

                  楼門

「類聚国史」に「淳和天皇天長元年(824年)九月・・・。以為定額。名曰神護国祚真言寺」。神護寺の成立である。もっとも定額寺となる前は、高雄山寺として和気氏の私寺で空海が止住していた。(同時期に室生寺にも空海が活動していたとの寺伝「宀一山記」にあるが、「大和志料」でも疑義ありとしているが、同じ山岳寺院として剽窃したものであろう)。

平安初期に建立された堂塔は、平安末期には廃寺同然、「神護寺舊記」に「人法共断絶。堂屋悉破滅」とある。文覚上人「後結一宇之草庵。即令居住云々」から再建が始まった。その鎌倉伽藍も天文116年(1533年)の細川晴元の焼打ちで焼失(「厳助往年記」)。豊臣氏滅亡後、江戸幕府により伽藍が再整備されたものの、明治、例に洩れず、またも衰微。今に残るのは桃山期の大師堂、江戸初期の明王堂、五大堂、毘沙門堂(昭和10年以前の金堂)、そして楼門である。屋根は明王堂を除き、�達葺か檜皮葺であったろう(残念なことに今五大堂、毘沙門堂は銅板葺に替わっている)。和様、漆喰(?)白壁と素木の柱と神社建築を思わせる簡素さである。中井正清あたりが絡んでいるのであろうか。如何にも紅葉の紅が引き立つ風情である。

               

              明王堂            五大堂

            

           大師堂                 鐘楼

(注)2009年9月撮影

 

 

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