一葉一楽

寺社百景

諏訪大社(下社) ー 整形された構成

2015-11-24 12:33:07 | 神社
春宮の現社殿は安永八年(1779)、秋宮は翌九年(1780)の上棟である。延宝七年(1679)の「下諏訪大明神春秋両社之絵図」に描かれた姿と変わらない。しかし上、下社の争いで下社焼失後の、長享二年(1488)造営時のことが、春秋両宮ともに、「春秋之宮造営之次第」に「御宝殿、御門屋、舞台、三間拝殿、五間拝殿」と記されている。この規模は延文元年(1356)「諏訪大明神絵詞」の頃まで遡ることが出来るかも知れないが、現在の片拝殿に相当するのか判らないが、三間、五間と非対称となっており、江戸以降の対称性を重んじた社殿配置とは異なる。とはいえ御神木を中心とする境内は、整然としており、延喜式の頃より式年造替が行われ踏襲されてきたとすると、上社を意識し創られた社ではないかとの疑念が起きる。先住の縄文的な上社に、あとから下社が入り込んだような感じを受けるのである。延喜式に二座とあるのは、ニ座に”した”のではないかと思われるほど、下社は出来あがっている。(参照:1.東京芸術大学大学院美術研究科文化財保存専攻保存修理建造物研究室編「信濃国一之宮諏訪大社上社本宮建造物調査報告書」2012、2.文化財建造物保存技術協会編著「重要文化財諏訪大社下社春宮幣拝殿ほか六棟保存修理工事報告書」2012)

春宮
 下馬橋

 神楽殿

   幣拝殿

  宝殿

(注)2015年9月撮影

延文元年(1356)には既に春秋二宮あったことが「諏訪大明神絵詞」で分かる。しかし創建当初より存在したのか否かは分からない。春秋、季節によって遷座するということは、上社の狩猟祭祀とは異なり農耕神の趣を持つ。二座というよりは、二社と全く異なる社といったほうがいいようである。

秋宮
  神楽殿

   幣拝殿

(注)2009年2月撮影
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熊野神社 ー 村の鎮守

2015-11-12 09:36:25 | 神社
甲州市塩山熊野に鎮座する熊野神社である。暴れ川笛吹川の支流、塩川と重川に挟まれた盛り土し小高くしたような場所にある。「本村(熊野村)及西広門田、山村、西原四ケ村ノ産神也」と「甲斐国志」にある。宝暦元年(1751)銘の棟札に各村の名主の名が載るが、その後裔と思われる名が昭和二十五年(1950)の修理工事にも氏子総代として残る。今も村の鎮守である。(修理委員会編「重要文化財熊野神社本殿幷拝殿修理報告書」1952)。

  拝殿

拝殿には石階を登る。本殿は更に一段高くなり、階段はなく、壁となっている。拝殿は江戸時代に再建された本殿三棟に対応した配置となっている。吹放の出入り口、そして窓、総拭床の一室空間である。神々の下での集会所の感のある参拝の場である。

     本殿

(注)2015年10月撮影

六棟の本殿のうち、西寄りの三棟は江戸時代の再建、東寄りの二棟は残る棟札から応仁元年(1467)再建と見られている。残る一棟は廃絶し、今は小祠となっている。江戸時代再建の三棟は春日造、前身社殿とは異なる。「甲斐国志」には「後白河法皇勅シテ規矩ヲ紀州熊野山ニ取リテ御建立アリ・・・」ではあるが、踏襲はされていない。二棟は昭和二十五年(1950)の修理前までは覆屋の中に、小屋組みがなくなり或いは僅かに残る状態で保存されていたようである。正面に扉はなく、側面である。従って高欄のある切目縁はあるものの脇障子は設けず正面性を拒否する。「山梨県史」では大社造に準えているが、木階を扉の前面にはおかない。蕃塀の発想か(山梨県「山梨県史 文化財編 1999)。
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