一葉一楽

寺社百景

吉備津彦神社 ー 尾張造

2019-10-25 11:00:40 | 神社
吉備津彦神社は備前一宮であった。一宮と認識された時期は不明であるが「左経記」寛仁元年(1017)の条に「・・・、其次備前吉備津宮神主被叙外従五位下、・・・」とあるのが吉備津彦神社の初見であると云われいる(「中世諸国一宮制の基礎的研究」中世諸国一宮制研究会編 2000)。規模など不明である。寛弘九年(1005)の「備前吉備津神社縁起写」には「正宮、本宮、拝殿、舞殿、・・、廻廊、二階楼門、・・、西国旅所第一之社観」とあるが、建武、文安、文亀と書写が繰り返されており、時代を同定するのは難しい。鎌倉初期には、「作善集」に「備前国常行堂」と重源は作善の一つに挙げている。
文明三年(1471)の「総社家社僧神前御祈念之事等注文」(「吉備津彦神社史料 第一文書編」1936)によると、八間八間の本社、四間四間の拝殿、その前に四間十六間の長屋等々、更に六間四面の神宮寺本堂、七間四面の神力寺本堂と神仏混淆の一大伽藍であったようである。
この本殿は永禄五年(1562)松田 元賢により日蓮宗に改宗しなかったということで、放火され焼失する。慶長五年(1600)に至り小早川秀秋により、備中在住の大工・小工を使い再建に着手、しかし関ヶ原の戦いのため、礎柱までで中断、完成したのは同九年(1604)池田利隆であった。
「寛文八年(1668)国主左少将源光政朝臣、御造営あるべしとて、御神体を仮宮に遷され、旧殿を壊ち給ふ」と天保十一年(1840)の「備前一宮日供講勧進帳」にある。光政没後であるが、延宝六年(1678)池田信輝(輝武命)・池田輝政(火星照命)を相殿に祀る。光政の推進した先祖祭祀が背景にあるのだろう。「勧進帳」は「三十年を経て元禄十年(1697)、国主左少将源綱政朝臣の時にいたりて、御普請成就す、是今の御宮なり」と続ける。池田家の出身地の様式、尾張造りである。



   

  子安社
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埴輪 ー 形の記憶

2019-10-07 09:05:28 | 神社
古墳の墳丘上に置かれ、「他界の可視化」であり、祭祀、また殯、葬礼の儀式を表現していたと云われている。現実生活の延長とみられ、家形埴輪も、その形は様々であるが、その時、現実に存在していた建造物を映していたものと考えられている(和田晴吾「前方後円墳とは何か」「前方後円墳」岩波書店2019、高橋克壽「埴輪」「列島の古代史5」岩波書店2006)。「古事記」雄略天皇に「堅魚を上げて舎屋を作れる家ありき。・・・己が家を天皇の御舎に似せて造れり」と、また大国主神の国譲りでは「とだる天の御巣如して、底の岩根に宮柱ふとしり、高天の原に氷木たかしりて治めたまはば・・・」と首長としての矜持を保つため氷木を要求していることが見える(倉野憲司校注「古事記」岩波文庫 1969)。千木、堅男木のある家形埴輪が、現実にあったことの傍証になろう。
家形埴輪には囲形埴輪の中に置かれたものがある。千木・堅男木を上げ、首長の館を模したと思われるが、この時の囲形埴輪に特徴がある。入口の上を、今の瑞垣上部にあるように、山形とすることであり、今も由緒ある神社が参道の正面から入らぬように、囲形埴輪も入口から真直ぐ館には向かわない。どこか神社始原の形と思わせるところがある。



   



(注)2019年9月撮影 東京国立博物館
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