一葉一楽

寺社百景

東福寺 ー 摂関家の禅宗

2013-09-14 21:27:21 | 寺院

三門の先に本堂がある。明治14年(1881年)に焼失後昭和9年(1934年)に再建された仏殿兼法堂である。三門は元応元年(1319年)東福寺が全焼した後応永年間(1394-1427年)に再建され、今に残る。また僧堂、東司、浴室も残る(太田博太郎「東福寺伽藍について」日本建築学会研究報告1949年)。安永9年(1780年)刊行の「都名所図会」には焼失した重層の仏殿そして単層の法堂も描かれている。

               

                        三門

                  

                            禅堂

                  

                            東司

東福寺建立は藤氏長者九条道家の発願である。藤原氏九条家発祥の地に真言・止観(天台)・禅門の三宗兼学の道場を、そして宋風であることを意図し建立した。当初は中心伽藍は三門・仏殿で、法堂は遅れて18年後に完成している。元応元年(1319年)創建伽藍焼失後の再建時も、「東福紀年録」によれば藤氏長者一条経通により先ず仏殿であり、法堂は仏殿上棟の81年後の完成である。藤氏長者の念頭にあるのは、仏殿のみであり、法堂は考えていなかったように見える。同じように三宗兼学であった建仁2年(1202年)創建の建仁寺、開基は源頼家、開山は道家の大叔父慈円が非難した入宋僧栄西、が九条道家の頭の中にあったのではなかろうか。4代鎌倉将軍の親元としての誇示であろうか、或いは追従であろうか。あくまでも、今流行の禅宗も、であったのであろう。

                  

                  

                      龍吟庵

(注)2009年9月撮影

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十輪院 ー 石仏との対話

2013-09-02 20:59:54 | 寺院

龕の中に納められた石造地蔵菩薩を本尊とする。弘安六年(1283年)完成の無住の「沙石集」によれば「福智院ノ地蔵モ、十輪院ノ地蔵モ、知足院ノ地蔵モ、マシテ市ノ地蔵ハ思ヒバシヨラセ給候ナ」と、南都の地蔵の霊仏として挙げられている(日本古典文学大系 渡辺綱也校柱「沙石集」 岩波書店 1966年5月)。十輪院は元飛鳥坊と称し元興寺子院の一つであったというが、「和州旧跡幽考」には「十輪院は弘法大師の開基と言う。さもあらめ。御堂などを石にてつくられけるが世の人のなすべき事とも見えず。その内に石仏の地蔵尊の三四尺ばかりなるを同じ石にぞつくりそえられたり」という。

                

                       南門

鎌倉時代は、東大寺再建に寄与した伊行末ら宋人の石工が奈良を中心に活躍した時期、この石仏龕もと思うのも一興である。嘗ての飛鳥坊の一隅に石仏龕が置かれたのであろう。地蔵信仰の興隆にともなって、その礼堂として現本堂が建てられ、十輪院というようになったのであろう。建てる時は寺ということを意識していたとは思えない、人の集まる場所、石仏を拝む場所、を用意することではなかったのか。板葺であったことがそれを物語っている。

                

                

             

同じく地蔵菩薩を本尊とする、また同時期に建てられたと見られる裳階がついた福智院と比べると、違いが際立つ。

                   

                       福智院

(注)2013年1月撮影

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