1.京都御所ー慶長の面影
賀茂社の参拝施設を御所風と書いた。賀茂社の舞殿等々は寛永5-6年(1628-9年)の造営である。当時の京都御所には慶長造営の殿舎が建ち並んでいた。現在の殿舎は安政2年(1855年)の再建である。その間寛永、承応、寛文、延宝、宝永、そして寛政と、江戸時代には8度の造替があった。寛永以降はすべて焼失である(藤岡通夫「京都御所」、「徳川実紀」参照)。慶長内裏の遺構は寛永造営の際紫宸殿を移築した仁和寺金堂、清涼殿の古材を使った同じく仁和寺の御影堂に見られる。
慶長内裏は後水尾天皇の即位に合わせ、慶長16年(1611年)から慶長18年にかけて造営された。その前の天正内裏は豊臣秀吉造営である。この時期徳川家康は豊臣家滅亡に向け策を弄しており、慶長内裏完成後わずかで大坂冬の陣が起きている。この慶長内裏の造営は豊臣色の一掃と、江戸幕府の朝廷への介入といった狙いがあったのではなかろうか。
仁和寺金堂は現在瓦葺であるのに対し、御影堂は檜皮葺である。移築の際、檜皮葺を瓦葺に変更したのであろう。しかし瓦葺に白い小壁と餝金具のついた半蔀は似合わない。檜皮葺、蔀戸、白の小壁であれば、嘗ては内裏の建築であったことを彷彿させるのに充分であろう。賀茂社の場合蔀戸がなく柱だけの空間であり、檜皮葺の屋根の軽さとバランスを整える。仁和寺金堂の瓦葺は重く覆いかぶさっている。寛永期のバランス感覚なのであろうか。仏閣とは云え瓦にすることはなかったのでは。瓦葺を檜皮葺に戻し、高さはそのままの姿、さらに仁和寺金堂は正面7間だが9間にすれば、慶長期の紫宸殿であろうか。
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仁和寺金堂 仁和寺御影堂
(注)2011年3月撮影
2.京都御所 -寛政期の人々が思い描いた平安期の内裏
平安期の古制に則った寛政内裏は嘉永6年(1853年)に焼失。出火元は女院御所。安政内裏はこの規模拡大した寛政内裏を踏襲し安政2年(1855年)造営された。毛虫を焼き殺すのに27万両かかったとのことである。幕府の財政は一段と逼迫したのは云うまでもない。現在の京都御所はこの安政内裏である。江戸時代寛政期の人々が、特に朝廷側の意向であろうが、思い描いた平安時代の内裏である。幕府と朝廷間の力関係が変わってきていたのであろうか。しかし建てる大工・棟梁は違い、より技術的であったようである。バランスから屋根を大きくとり、その結果軒下には組物を入れたり、柱の下に禅宗様の礎盤を入れたりと100%和様とはいえない。若干ちぐはぐな結果に陥っているような気がする。不定愁訴という言葉が嘗て流行ったが、襖や杉戸に絵が描かれていなければ、京都御所は直線と四角形だけの味気ない、住めば不定愁訴が現実化しそうな世界である。白が余白となって全体の逃げ道となっていないためであろうか。
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紫宸殿
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御車寄北側の廊下 紫宸殿に向かう撞木廊下
撞木廊下は小御所の西側にあるが、昭和20年(1945年)5月「建物疎開」として処分された。しかし小御所が花火で焼失した時、紫宸殿が類焼を免れたのは、この「疎開」のお陰かも知れない。なお小御所は昭和33年(1958年)再建、廊下は昭和49年(1974年)復元。
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御常御殿
(注)2010年5月撮影
3.蛤御門
筋鉄門であることが防御用であったことを示している。蛤御門の変の時には、その役割を果たした。単に高麗門であったら、何処かの寺院の門としか見えなかったであろう。城門のように筋鉄門にしたのは、何から守ろうとしたのであろうか。宝永大火後の建築だとすれば、朝廷に恐れるモノはなかったのではと思うが。幕府に養われながらも、幕府の力の排除なのだろうか。
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(注)2010年5月撮影