一葉一楽

寺社百景

閑話休題:横浜赤レンガ倉庫 ー 廃墟と再生

2022-02-09 10:38:28 | 住宅等
横浜港大桟橋が完成したのは明治二十七年(1894)、隣接する新港埠頭は明治三十二年(1899)着工、大正六年(1917)完成である。赤レンガ倉庫は新港埠建設中に保税倉庫として、妻木頼黄率いる大蔵省臨時建築部が担当し、明治四十四年(1911)に2号館が竣工し、当時の先端設備を導入した1号館は大正二年(1912)に竣工した。
耐火性に優れた赤レンガを倉庫に使ったのは、関東大震災以前としては、当然であったのであろう。装飾は破風板下のデンティルでアクセントをつけているのみである。倉庫として使われたのは平成元年(1989)まで。もっとも1960年代後半には立入禁止となっていた保税倉庫としては役目は終わっていたようであるが。当初の役目が終わった時点が、廃墟への始まりであった。
用途の変更は、文化・商業施設として、レトロな雰囲気を残した再出発であり、廃墟への道の返上である。再生と云っていいのか疑問である。




(注)2016年12月撮影

   

(注)1970年撮影

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京都御所 - 政治と火災のはざま

2011-10-15 22:33:20 | 住宅等

1.京都御所ー慶長の面影

賀茂社の参拝施設を御所風と書いた。賀茂社の舞殿等々は寛永5-6年(1628-9年)の造営である。当時の京都御所には慶長造営の殿舎が建ち並んでいた。現在の殿舎は安政2年(1855年)の再建である。その間寛永、承応、寛文、延宝、宝永、そして寛政と、江戸時代には8度の造替があった。寛永以降はすべて焼失である(藤岡通夫「京都御所」、「徳川実紀」参照)。慶長内裏の遺構は寛永造営の際紫宸殿を移築した仁和寺金堂、清涼殿の古材を使った同じく仁和寺の御影堂に見られる。

慶長内裏は後水尾天皇の即位に合わせ、慶長16年(1611年)から慶長18年にかけて造営された。その前の天正内裏は豊臣秀吉造営である。この時期徳川家康は豊臣家滅亡に向け策を弄しており、慶長内裏完成後わずかで大坂冬の陣が起きている。この慶長内裏の造営は豊臣色の一掃と、江戸幕府の朝廷への介入といった狙いがあったのではなかろうか。

仁和寺金堂は現在瓦葺であるのに対し、御影堂は檜皮葺である。移築の際、檜皮葺を瓦葺に変更したのであろう。しかし瓦葺に白い小壁と餝金具のついた半蔀は似合わない。檜皮葺、蔀戸、白の小壁であれば、嘗ては内裏の建築であったことを彷彿させるのに充分であろう。賀茂社の場合蔀戸がなく柱だけの空間であり、檜皮葺の屋根の軽さとバランスを整える。仁和寺金堂の瓦葺は重く覆いかぶさっている。寛永期のバランス感覚なのであろうか。仏閣とは云え瓦にすることはなかったのでは。瓦葺を檜皮葺に戻し、高さはそのままの姿、さらに仁和寺金堂は正面7間だが9間にすれば、慶長期の紫宸殿であろうか。

            

         仁和寺金堂                                      仁和寺御影堂

(注)2011年3月撮影

2.京都御所 -寛政期の人々が思い描いた平安期の内裏

平安期の古制に則った寛政内裏は嘉永6年(1853年)に焼失。出火元は女院御所。安政内裏はこの規模拡大した寛政内裏を踏襲し安政2年(1855年)造営された。毛虫を焼き殺すのに27万両かかったとのことである。幕府の財政は一段と逼迫したのは云うまでもない。現在の京都御所はこの安政内裏である。江戸時代寛政期の人々が、特に朝廷側の意向であろうが、思い描いた平安時代の内裏である。幕府と朝廷間の力関係が変わってきていたのであろうか。しかし建てる大工・棟梁は違い、より技術的であったようである。バランスから屋根を大きくとり、その結果軒下には組物を入れたり、柱の下に禅宗様の礎盤を入れたりと100%和様とはいえない。若干ちぐはぐな結果に陥っているような気がする。不定愁訴という言葉が嘗て流行ったが、襖や杉戸に絵が描かれていなければ、京都御所は直線と四角形だけの味気ない、住めば不定愁訴が現実化しそうな世界である。白が余白となって全体の逃げ道となっていないためであろうか。

         

        紫宸殿

          

         御車寄北側の廊下          紫宸殿に向かう撞木廊下

撞木廊下は小御所の西側にあるが、昭和20年(1945年)5月「建物疎開」として処分された。しかし小御所が花火で焼失した時、紫宸殿が類焼を免れたのは、この「疎開」のお陰かも知れない。なお小御所は昭和33年(1958年)再建、廊下は昭和49年(1974年)復元。

    

  御常御殿

(注)2010年5月撮影

 3.蛤御門

 筋鉄門であることが防御用であったことを示している。蛤御門の変の時には、その役割を果たした。単に高麗門であったら、何処かの寺院の門としか見えなかったであろう。城門のように筋鉄門にしたのは、何から守ろうとしたのであろうか。宝永大火後の建築だとすれば、朝廷に恐れるモノはなかったのではと思うが。幕府に養われながらも、幕府の力の排除なのだろうか。

         

注)2010年5月撮影

 

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