一葉一楽

寺社百景

談山神社その2 ー 三つの本殿

2018-09-21 10:49:18 | 神社
談山神社境内には現在の現本殿と嘗つての本殿二棟がある。元和五年(1619)の本殿再建を機に式年造替を取り入れたためである。寛文八年(1668)、享保十九年(1734)、寛政八年(1796)そして嘉永三年(1850)の現本殿である。元和期の本殿は摂社東殿に、寛文期は末社惣社本殿に、享保期は百済寺本堂、寛政期は東大寺東南院持仏堂となっている。すなわち談山神社には現本殿と元和期・寛文期の旧本殿が存在している。(「重要文化財談山神社神廟拝所摂社東殿閼伽井屋楼門拝殿東透廊西透廊修理工事報告書」奈良県教育委員会 1980、三浦正幸「多武峰談山神社本殿」日本建築学会計測系論文報告書 1985)
本殿と拝殿を透廊で繋ぐ現在の形は元和造営時の姿を伝えているが、「多武峰縁起」には、楼門ではなく馬道とし、中庭を廻廊が囲む同様の形が描かれている。廻廊の造営は永久四年(1116)まで遡ることが出来るようであるが、永承元年(1046)「鳴動」といった「恠異」で勅使派遣に至った経緯と関係があるのではないかと思える。以降五年乃至二年毎十二度に亘って山は「破裂」し、告文使が派遣されている。一種の「強訴」とも云え、儀式の場を廻廊で仕切り、荘厳化することが必要であった。興福寺との抗争が背後にあるのだろう。或いは頻繁の「破裂」は世情不安から摂関家側からの要求であったかも知れない。


 楼門

   拝殿 東透廊

   本殿


東殿
   惣社本殿
  惣社拝殿

(注)2018年6月撮影
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談山神社 ー 天台宗寺院

2018-09-03 13:31:43 | 神社
嘗つて妙楽寺であった。建久八年(1197)編といわれている「多武峰略記」には「塔南建三間四面堂。号妙楽寺矣。」。白鳳七年(678)に十三重塔が建ち、白鳳十一年(682)には「三面檜皮葺堂四面庇、其中南面孫庇」の講堂である。焼失、再建を繰り返し今「神廟拝所」と呼ばれている。金堂も講堂の東に、今は何も残らないが、建てられたようである。十世紀半ば延暦寺の僧、俗姓紀氏の実性、橘氏の増賀上人が入るにいたって天台宗寺院としての伽藍が整った。延暦寺の傘の下に入ったことは、大和国に絶大な勢力を持つ興福寺の攻撃の対象となり、多武峰は焼失を繰り返した。
建久八年(1197)時点の講堂は「檜皮葺五間四面。礼堂作。」とある。承安三年(1173)焼失後再建された講堂であろう。その前身天禄三年(972)完成の講堂は「両棟作。檜皮葺四面庇。内陣者竪三間横五間。・・・。在隔子五間。外陣者竪二間横五間。」。この「両棟作」とは双堂を云っているのであろう。天台宗寺院の初期形式を表している。現建物は寛文八年(1,668)造営である。「多武峰縁起」に描く講堂と似ているが、記録によれば承安以降四回ほど焼失と造営を繰り返しており、どの時点まで初期の姿を継承していたのかは分からない。いづれにしても、寛文の頃には天台色は薄まってきたのであろう。


   

十三重塔は「略記」によれば「当寺濫觴歟」と云い、藤原鎌足の長子定恵の建立と伝える。しかし定恵ふくめ「入唐帰朝、改葬起塔等之時代異説」ありとする。「略記」に創建当初は瓦葺で、「荷西記云、件塔移清涼山実地院塔」と唐の様式を模したという。承安三年(1173)この創建塔は興福寺の攻撃に遭い焼失。元暦二年(1185)供養の塔は檜皮葺となった。国風である。現在の塔は享禄五年(1532)建立である。この間何回かの焼失・再建を繰り返したと推定され、再建塔と同様式とは言い切れないが、平安末期の姿を彷彿させる。井桁に組んだ土台の上に立ち、心柱は初重から上まで貫くが、四天柱は二重毎に一本の柱である。これが国風の十三重塔であろうか。(「重要文化財談山神社塔婆(十三重塔)修理工事報告書」奈良県教育委員会 1966)。

   


(注)2018年6月撮影
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