氏寺は私宅の持仏堂が発展したものが多いようであるが、鑁阿寺もまた足利氏二代義兼がその館内に、大日如来を祀った持仏堂が起源であるという。真言宗である。伽藍として整えたのは三代義氏である。鎌倉に館を移したのであろう。雷火で焼失した大日如来大殿を七代貞氏が再建、現在の本堂である。密教本堂を当時新興の禅宗様を折衷しての造営である。「大御堂造営の事、その功今に遅引の条、本意にあらざるの間、いそぎその沙汰を致すべぎの由を存じ候。用途の事、且は百貫文寄進し候なり」と伝える(「近代足利市史」足利市 1977年)。従前と異なり、同時期貞氏が再興した鎌倉浄妙寺と同じように禅宗様にしたかったのであろう。正安元年(1299年)の上棟まで手斧始から七年もかかった理由であろう。なお浄妙寺も真言宗の極楽寺から臨済宗の浄妙寺に変わったばかりであった。
楼門
応永十四年(1407年)から永享四年(1432年)にかけて組物と身舎台輪を残し、柱、小屋組など改修し本瓦葺とした(「月刊文化財」第一法規 2013年7月)。禅宗様の反りの強い軒が、扇垂木が無くなり、本瓦葺にしたかったためかもしれないが、禅宗様くささが消え、今に見る密教色が強い形に変わった。室町幕府に対抗していた鎌倉公方足利満兼・持氏の頃である。もっともこれは大日如来を安置する本堂だけで、応永14年建立と云われる経堂は禅宗様そのものであり、禅宗様に対する抵抗感はなかったようだが。
本堂
一切経堂
鐘楼
東門
(注)2013年7月撮影