一葉一楽

寺社百景

鑁阿寺 ー 顕密仏教の抵抗

2013-08-24 17:14:22 | 寺院

氏寺は私宅の持仏堂が発展したものが多いようであるが、鑁阿寺もまた足利氏二代義兼がその館内に、大日如来を祀った持仏堂が起源であるという。真言宗である。伽藍として整えたのは三代義氏である。鎌倉に館を移したのであろう。雷火で焼失した大日如来大殿を七代貞氏が再建、現在の本堂である。密教本堂を当時新興の禅宗様を折衷しての造営である。「大御堂造営の事、その功今に遅引の条、本意にあらざるの間、いそぎその沙汰を致すべぎの由を存じ候。用途の事、且は百貫文寄進し候なり」と伝える(「近代足利市史」足利市 1977年)。従前と異なり、同時期貞氏が再興した鎌倉浄妙寺と同じように禅宗様にしたかったのであろう。正安元年(1299年)の上棟まで手斧始から七年もかかった理由であろう。なお浄妙寺も真言宗の極楽寺から臨済宗の浄妙寺に変わったばかりであった。

                

                

                        楼門

応永十四年(1407年)から永享四年(1432年)にかけて組物と身舎台輪を残し、柱、小屋組など改修し本瓦葺とした(「月刊文化財」第一法規 2013年7月)。禅宗様の反りの強い軒が、扇垂木が無くなり、本瓦葺にしたかったためかもしれないが、禅宗様くささが消え、今に見る密教色が強い形に変わった。室町幕府に対抗していた鎌倉公方足利満兼・持氏の頃である。もっともこれは大日如来を安置する本堂だけで、応永14年建立と云われる経堂は禅宗様そのものであり、禅宗様に対する抵抗感はなかったようだが。

                

       

                        本堂

                   

                       一切経堂

                   

                         鐘楼

                   

                        東門

                      

(注)2013年7月撮影

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青梅住吉神社 ー 海から離れた航海神

2013-08-08 10:23:06 | 神社

創建は応安二年(1369年)、臨済宗建長寺派の延命寺を開いた季龍が、寺の鎮守として、出身地堺に縁故のある住吉社を勧請したと伝える。季龍元筍は14歳で建長寺国一禅師太古世源のもとに入っており、住吉社と関わるところがない。どちらかというと季龍にとって産土神としての意味しかないようである。神は土地に密着していると捉えらていたのであろうか(「堺市史」1929-31年)。

現在の拝幣殿・本殿は、国は勿論、東京都、青梅市の有形文化財にも指定されていない。境内が青梅市の史跡に指定されているにすぎない。

                 

彫刻に埋め尽くされた素木造の拝幣殿。天保六年(1835年)の年号のある擬宝珠には、青梅縞を扱っていたであろう商人達の名が刻まれ、町人の力を誇示する。

        

文政十三年(1830年)完成の「新編武蔵風土記稿」に「住吉明神社」とあり、本殿はわざわざ「彩色の彫刻あり」と記す。本殿の再建は拝幣殿より早く、棟札に依れば正徳六年(1716年)貝塚作右衛門の建立とあり、宝暦三年(1753年)には地元の棟梁による修理が行われている。この頃は「彩色の彫刻」はおかしくはなかったのであろう(参照:「東京都の近世社寺建築」東京都 1989年10月)。春日造というよりは入母屋造を妻入りとし、軒唐破風としたという感じである。また檜皮葺から何時替わったのか分からぬが、今の瓦棒銅板葺はいただけない。

                     

                   

                

(注)2013年7月撮影

中川武は「中世から江戸初期までの一間社春日造の神社本殿がもっていた微妙な形態比例の力がすでに失われている」とし「伝統形式の解体」とした例としてこの青梅住吉神社本殿を挙げている(中川武「建築様式の歴史と表現」彰国社 1987年5月)。

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