一葉一楽

寺社百景

出雲大社 ー 大社造4

2020-05-01 14:12:15 | 神社
現社殿群は延享元年(1744)造営であるが、寛文七年(1667)造営の社殿を基本的には踏襲し、唯一神道に依拠する。「懐橘談」を著わした松江藩の藩儒黒沢石斎の影響が強く、「古事記」「日本書紀」の世界を演出する。
天平五年(733)と奥付のある「出雲国風土記」の出雲郡杵築郷に「天の下造らしし大神の宮を造り奉らむとして、諸の皇神等、宮處に参集ひて、杵築きたまひき。」とあり、神社列記の欄に「杵築大社」とある(秋本吉郎校注「風土記」日本古典文学大系 岩波書店 1958)。これが「日本書紀」斉明天皇五年(659)にある「是歳、出雲国造、名を闕せり、に命せて、神の宮を脩厳はしむ。」の「神の宮」であるとも云われているが、本居宣長「古事記伝」や坂本太郎他校注「日本書紀」岩波文庫版では、熊野大社とする。杵築大社ではないという。杵築大社のある出雲郡の郡司大領は日置臣であった。また隣り合う神門郡の郡司大領は神門臣であった。両郡司とも出雲臣の一族と云われている。熊野大神を奉斎し、その下で火継をする出雲国造が杵築大社を脩厳するとするにはなんらかの理由付けが必要であろう。出雲国造が意宇郡大領を解任され、杵築大社で祭祀に専従することになった延暦十七年(798)以降、現在の出雲大社が始まったのではなかろうか。
その形は「古事記」(青木和夫他校注「古事記」日本思想大系 岩波書店 1982)が云う「僕が住所ノミ者、天つ神ノ御子之天津日継所知せる登陀流天の御巣ノ如くし而、底津石根於宮柱布斗斯理、高天ノ原於氷木多迦斯理而、・・・」であったろうか。また「風土記」神門、「高岸郷・・・、・・・甚く夜晝哭きましき。仍りて、其処に高屋を造りて、坐せて、即ち、高椅を建てて、登り降らせて、養し奉りき。」(日本古典文学大系「風土記」秋本吉郎校注 岩波書店 1958)と、高屋を建て隔離する様子が描かれている。出雲郡にはまた、大社造の特徴とする「田」の字形九本柱建物の柱が発掘された青木遺跡が、杵築大社の東9kmにある(「青木遺跡II」島根県教育委員会 2006)。大社造につながるかも知れない文献および考古資料である。しかし「風土記」では「杵築大社」が「高屋」であったとの言及は全くない。周辺の考古資料から「田」型九本柱建物の可能性はあるが、高さがあったかどうかは判然としない。高さが前面にでてくるのは、天禄元年(970)の「口遊」である。「雲太。和二。京三。謂大屋誦」とあり「雲太」とは「謂出雲国城築明神神殿。在出雲郡」とある。「日本紀略」後一条天皇、長元四年(1031)「出雲国言上 杵築宮無故 顛倒之由」と神殿転倒が続くのは、この後のことであり、「口遊」の前には見えない。長元四年の顚倒は「左経記」に詳しいが、十月十七日の条の最後に「前年顛倒云々、可令問彼例者」とあり、長元四年の前にも顚倒があったらしい。「口遊」の傍証にはなる。









素鵞社

東 十九社

 宝庫

(注)2019年11月撮影
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