文化四年(1807)の「水府志料」に「佛生寺心柱に題名あり」として、今は消えて見られないそうだが、「たち原與次郎形見々々、たち原かけゆさへんかた見々々、立原かしん當寺てならいの時分書之、天正十三年三月十六日、・・・」以下立原氏一門形見々々と続く。そして最後に一首「かたみ々々 かたみとなれや ふてのあと われはいつくの うらにすむとも」。関東管領と室町幕府、佐竹氏と山入氏、江戸氏と大掾氏、と抗争が続いていた。立原氏の出自は大掾氏一門と言われているが、この戦国の時代では江戸氏の家臣であった。題名に書かれたのは討ち死にした立原氏一族の名であろうか。古墳の点在する栗崎の台地上に、仏性寺がある。まさに形見、鎮魂の八角堂である。(文化財建造物保存技術協会編「重要文化財佛性寺本堂保存修理工事報告書」2014)。
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(注)2015年11月撮影
仏性寺は慈覚大師草創と伝える天台宗寺院である。現本堂である禅宗様の八角堂には大日如来を安置する。この文安五年(1448)銘のある本尊を安置ということは、前身堂舎があったことを意味する。平成二十四年(2012)の発掘調査では、八角形の基壇が確認され、前身堂舎も八角堂であったと判明。
現八角堂の建立には立原氏の関与した、水戸薬王院修復や善福寺阿弥陀堂建立と天台宗への関与が目立つ、と思われるが、立原氏一族は真言宗の「六地蔵寺過去帳」に名が載っているとのこと、即ち江戸氏に帰属後は真言宗となったと言えよう。しかしなお、大掾氏以来の天台宗を保護し、仏性寺に題名を残したのは、大日如来への帰依であろうか、或いは八角堂に鎮魂の意味を見出したのであろうか。
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(注)2015年11月撮影
仏性寺は慈覚大師草創と伝える天台宗寺院である。現本堂である禅宗様の八角堂には大日如来を安置する。この文安五年(1448)銘のある本尊を安置ということは、前身堂舎があったことを意味する。平成二十四年(2012)の発掘調査では、八角形の基壇が確認され、前身堂舎も八角堂であったと判明。
現八角堂の建立には立原氏の関与した、水戸薬王院修復や善福寺阿弥陀堂建立と天台宗への関与が目立つ、と思われるが、立原氏一族は真言宗の「六地蔵寺過去帳」に名が載っているとのこと、即ち江戸氏に帰属後は真言宗となったと言えよう。しかしなお、大掾氏以来の天台宗を保護し、仏性寺に題名を残したのは、大日如来への帰依であろうか、或いは八角堂に鎮魂の意味を見出したのであろうか。