一葉一楽

寺社百景

仏性寺 ー 形見の八角堂

2015-12-25 09:40:19 | 寺院
文化四年(1807)の「水府志料」に「佛生寺心柱に題名あり」として、今は消えて見られないそうだが、「たち原與次郎形見々々、たち原かけゆさへんかた見々々、立原かしん當寺てならいの時分書之、天正十三年三月十六日、・・・」以下立原氏一門形見々々と続く。そして最後に一首「かたみ々々 かたみとなれや ふてのあと われはいつくの うらにすむとも」。関東管領と室町幕府、佐竹氏と山入氏、江戸氏と大掾氏、と抗争が続いていた。立原氏の出自は大掾氏一門と言われているが、この戦国の時代では江戸氏の家臣であった。題名に書かれたのは討ち死にした立原氏一族の名であろうか。古墳の点在する栗崎の台地上に、仏性寺がある。まさに形見、鎮魂の八角堂である。(文化財建造物保存技術協会編「重要文化財佛性寺本堂保存修理工事報告書」2014)。






(注)2015年11月撮影

仏性寺は慈覚大師草創と伝える天台宗寺院である。現本堂である禅宗様の八角堂には大日如来を安置する。この文安五年(1448)銘のある本尊を安置ということは、前身堂舎があったことを意味する。平成二十四年(2012)の発掘調査では、八角形の基壇が確認され、前身堂舎も八角堂であったと判明。
現八角堂の建立には立原氏の関与した、水戸薬王院修復や善福寺阿弥陀堂建立と天台宗への関与が目立つ、と思われるが、立原氏一族は真言宗の「六地蔵寺過去帳」に名が載っているとのこと、即ち江戸氏に帰属後は真言宗となったと言えよう。しかしなお、大掾氏以来の天台宗を保護し、仏性寺に題名を残したのは、大日如来への帰依であろうか、或いは八角堂に鎮魂の意味を見出したのであろうか。
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諏訪大社(上社) ー 二つの軸線

2015-12-04 09:10:13 | 神社
延文元年(1356)の「諏訪大明神画詞」に「上壇ハ尊神ノ御在所、鳥居格子ノミアリ。・・・。中ノ壇ニハ宝殿、経所計ナリ。・・・。下ノ壇ハ松壖・柏城甍ヲ並ヘ、拝殿、廻廊軒ヲツラネタリ」とあり、社地は上中下の三壇で構成されていた。中壇に経所とあるが、神仏習合が始まっていたのであろうか、気になるものの、拝殿・廻廊より宝殿が上にあり、現下社を想起させる境内となっていたようである。まさに守屋山を神体とし、神楽殿から宝殿の間を通り勅使門そして硯石に至る現在にも残る軸線の一つである。

 布橋門  勅使門



  幣拝殿

 勅額殿  神饌所

(注)2015年9月撮影

武田氏滅亡の天正十年(1582)社殿焼失を転機として軸線が変わる。再興あたって神宮寺と神社の力関係が変わったのであろうか。神宮寺の普賢堂、棟札写によれば正応五年(1292)には建立されていた、に向かって、元和三年(1617)再建の拝殿、更に寛永八年(1631)上壇神居に置かれた鉄塔が並ぶ。普賢菩薩は諏訪大明神の本地仏で、神仏習合色が強くなった第ニの軸線である。山腹の斜面に建てられたためか、片拝殿は二間二間となり、下社の五間五間とも、或いは長享二年(1488)時の下社の三間五間とも異なる。
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