神仏分離令前は琴弾八幡宮が四国八十八箇所霊場の六十八番札所、神宮寺の観音寺が六十九番札所であった。分離令で琴弾八幡宮の別当神恵院は廃寺とはならず、分離し七寶山神恵院となり、七寶山観音寺の境内に移った。「金毘羅参詣名所図会」の挿絵、観音寺の客殿・方丈の位置である。
「琴弾宮絵縁起」-鎌倉時代作成とされているが、藤原實秋撰「七寶山八幡琴引縁起」と同時期の応永二十三年(1416)と推定するーには観音寺は、朱色に塗られた境内神の社殿とともに、参道脇、ほぼ現在地、山に囲まれ描かれている。しかし現在の建物は、現金堂も含め、創建あるいは南北朝初期の再興時期の位置とは異なるようである。三金堂であったとすれば、現在地は狭すぎる。正慶元年(1332)再興の方五間の金堂を、万治年間に三間四間に縮小し、西金堂(現薬師堂)を石段の上にあげたのは、従来の場所を確保できなかったからであろうか(「重要文化財観音寺金堂修理工事報告書」重要文化財観音寺金堂修理委員会編 1962)。
金堂
薬師堂(西金堂)
観音寺駅付近で見た竜巻
(注)2018年12月撮影
「琴弾宮絵縁起」-鎌倉時代作成とされているが、藤原實秋撰「七寶山八幡琴引縁起」と同時期の応永二十三年(1416)と推定するーには観音寺は、朱色に塗られた境内神の社殿とともに、参道脇、ほぼ現在地、山に囲まれ描かれている。しかし現在の建物は、現金堂も含め、創建あるいは南北朝初期の再興時期の位置とは異なるようである。三金堂であったとすれば、現在地は狭すぎる。正慶元年(1332)再興の方五間の金堂を、万治年間に三間四間に縮小し、西金堂(現薬師堂)を石段の上にあげたのは、従来の場所を確保できなかったからであろうか(「重要文化財観音寺金堂修理工事報告書」重要文化財観音寺金堂修理委員会編 1962)。
金堂
薬師堂(西金堂)
観音寺駅付近で見た竜巻
(注)2018年12月撮影