一葉一楽

寺社百景

観音寺 ー 一山二霊場

2019-04-16 09:59:58 | 寺院
神仏分離令前は琴弾八幡宮が四国八十八箇所霊場の六十八番札所、神宮寺の観音寺が六十九番札所であった。分離令で琴弾八幡宮の別当神恵院は廃寺とはならず、分離し七寶山神恵院となり、七寶山観音寺の境内に移った。「金毘羅参詣名所図会」の挿絵、観音寺の客殿・方丈の位置である。
「琴弾宮絵縁起」-鎌倉時代作成とされているが、藤原實秋撰「七寶山八幡琴引縁起」と同時期の応永二十三年(1416)と推定するーには観音寺は、朱色に塗られた境内神の社殿とともに、参道脇、ほぼ現在地、山に囲まれ描かれている。しかし現在の建物は、現金堂も含め、創建あるいは南北朝初期の再興時期の位置とは異なるようである。三金堂であったとすれば、現在地は狭すぎる。正慶元年(1332)再興の方五間の金堂を、万治年間に三間四間に縮小し、西金堂(現薬師堂)を石段の上にあげたのは、従来の場所を確保できなかったからであろうか(「重要文化財観音寺金堂修理工事報告書」重要文化財観音寺金堂修理委員会編 1962)。


 

   金堂

  薬師堂(西金堂)

 観音寺駅付近で見た竜巻

(注)2018年12月撮影
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金刀比羅宮 ー 守護神

2019-04-03 11:14:10 | 神社
真言宗象頭山松尾寺金光院であった。江戸幕府の修験道の仏教への組み入れに伴い、元和六年(1620)以降堂塔を新築・改築し、最終的に金堂と、寺院としての隆盛を誇った。しかし金堂は天保八年(1837)に建立されものの、明治元年(1868)の神仏分離令で旭社となった。僅か三十年の仏殿であった。彫刻と組物で軒下を埋め、板軒には雲文を刻む。本尊は薬師如来であったが、その仏壇はなく、神座に改造されている。松尾寺の本尊、十一面観音を安置する観音堂は、神仏分離令で解体され、大年社となり、更に三穂津姫社となった。分離令で御本宮となった金毘羅神とは廻廊で繋がる。
「金毘羅参詣名所図会」の挿絵には神仏分離令前の習合した仏教寺院としての姿があり、境内神として境内の一番高い場所に位置するのは三十番神社であった。両部神道を基にするということで廃止となり、石立社
となった。江戸時代、松尾寺と金刀比羅宮とは習合していたというよりは、金刀比羅宮の地位が高くなり共存していたというのが現実ではなかったのかと思える。
金毘羅宮が内陣・幣殿・拝殿を構えるようになったのは元和九年(1623)、この年古社は役行者堂となった。即ち以前は一間社ではなかったのかと推定できる。元亀四年(1573)の棟札にあるように「松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」と松尾寺の一つの小社であったと推定できる。(「重要文化財金刀比羅宮表書院及四脚門保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編 金刀比羅宮 2002)。




 社務所門

     旭社

 三穂津姫社

 鼓楼

(注)2018年12月撮影
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする