一葉一楽

寺社百景

伏見稲荷大社 ー 山から下りた社

2014-02-26 13:16:18 | 神社

「いなり山しるしの杉のすきし世の まことをいまにたつねてを見む」と伴信友は「験の杉」の序で詠む。文献から稲荷社を考証しているのだが、伴信友にとっての「まこと」とは、「いにしへの最澄空海が徒、おのれが仏道を人に信しめ、世に弘めむ謀に、神に本地垂跡と云事をたてて、皇国の神たちを、仏ざまに混へ引入れ・・・」との観点からみたものである。            

                             

「雍州府志」にも、空海が山上の稲荷社を山下に遷座したされているが、偽妄の説という。平安中期「蜻蛉日記」少し遅れ「枕草子」に稲荷社は山中に三社鎮座していたことを描く。もっとも清少納言は、当時の本社であったろう中の社にのみ詣でたようだが。宮中の女性参詣者から、当時の稲荷社の性格が分かる。伴信友は平安末期「もとは山上の三社の神を山下にも別に遷して、又三社を建て祀れるなり、さるは山上の社には、仕奉る事の容易からざるが故に、常にはもはら其山下なる社にて祭り仕奉り、且は詣る人にも、便宜からむとての計らひにこそはありしなるべけれ・・・」と推測する。

              

              

                  

                      本殿

稲荷社を鎮守とする東寺の「東寺長者補任」に依れば応仁二年(1468年)「彼社堂社人家寺悉焼之」とある。再建されたのは、伴信友のいう下社、現本殿、奥宮で明応三年(1494年)という。再建は本願所、東寺末寺愛染寺主導。そのためか、現境内は何処か山岳寺院の趣をもつ。伴信友に云わせれば、「最澄空海が徒」に誑かされて結果ということになる。山を下りた段階であったかも知れないが。江戸初期の女流絵師、狩野雪信の筆と伝える「稲荷社古図」、多分社伝などを参考にしたのであろうが、本殿は三間社、奥宮はない、本殿後方に瑞垣に囲まれ二社が描かれている。いかにも摂社風である。明応の再興前の姿であろう。「梁塵秘抄」に「稲荷をば、三つの社と聞きしかど、今は五つの社なりけり」とある。「稲荷社古図」はこの姿を表しているのだろうか。五社相殿の五間社となったのは、明応再興時であろう。三間社の奥宮は、跡も不明確となっていた、山の上三柱を鎮座させたのであろう。権殿、奥宮、木階を隠すように囲いがされている、かつて本殿もそうであったようだが、人の侵入を防ぐ意味であろうが、何故と問いたくなる。(「重要文化財伏見稲荷大社本殿修理工事報告書」京都府教育庁文化財保護課 1960年)。

                  

                      権殿

                  

                           奥宮

(注)2014年2月撮影

                  

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栄山寺 ー 八角円堂の系譜

2014-02-07 09:20:57 | 寺院

栄山寺八角堂の建立は「造円堂所牒」から天平宝字七年(763年)前後、藤原不比等の供養のため造立された興福寺北円堂創建、養老五年(721年)、の40年後である。夢殿創建の24年後である。不比等の子武智麻呂は延慶撰「藤氏家伝」(天平宝字四年ー760年)に「(天平九年ー737年)八月五日火葬干佐保山礼也」とあり、栄山寺の裏山に改葬され、八角堂はその供養のため建立されたようである。とはいえ、その大きさは北円堂の70%にも満たない小振りの八角円堂である。北円堂は「興福寺流記」には延暦記云として、本尊は丈六の弥勒とあるが、栄山寺八角堂の当初の本尊は不明である。彩色された四本の八角形の内陣柱の中に何も置かれていなかった可能性がないではない。天平宝字八年には建立したと云われている藤原仲麻呂、実質的にはその子朝�紡ではなかったのかと思っているが、が斬首となっていることと無関係ではないと推測する。(参照;福山敏男「栄山寺の創立と八角堂」(寺院建築の研究 中)中央公論美術出版 1987年2月)。            

                            

              

              

                      八角堂

栄山寺の本堂は天文二十二年(1553年)再建と云われているが、外陣を吹き抜けとするものの、木割は細く、広大であった栄山寺領を勃興した土豪に押領され衰退したといったたたづまいである。多分再建とそんなに変わらぬ頃に持ちこまれたのであろうか、道澄寺(京都伏見深草)の古鐘がある。まだ藤原南家の名前が残っていたのであろうか。

       

                         本堂

              

(注)2013年10月撮影                 

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