武蔵国国衙の成立は八世紀前葉以降、十世紀末~十一世紀代にはその国衙が衰退したと見られている。大國魂神社はその武蔵国国衙跡の西南隅に鎮座する。このことは、六所宮(大國魂神社)は国衙か機能しなくなり、六所宮の主祭神を大己貴尊とすることから新たに武蔵国神祇の、武蔵国国生みのシンボルとして成立したと推測される。祭神にはいろいろな説があるようだが、衰微した一宮及び小野神社の祭神を客来三神として合祀し、現在の九神一社とする(「新編武蔵風土記稿」)。総社と呼ばれるようになったのは、この合祀してのことであろうか。尤も総社と六所宮との間には意味の違いはないが。(「新版武蔵国府のまち 府中市の歴史」府中市教育委員会 2006)。
六所宮の初見は「吾妻鏡」寿永元年(1182)、源頼朝が安産祈願のため、伊豆山、箱根、鹿島、香取、上総一宮、相模一宮等々とともに、武蔵六所宮に使者を出し、武蔵国を代表する神社として名を載せる。関東武士集団にとってまだ武蔵国のシンボル的存在であった。このことは徳川家康の江戸開府時の崇敬にもつながる。
江戸開府は慶長八年(1603)、江戸の町の整備も始まり、六所宮もまた慶長十一年大久保長安を奉行として三殿並列の社殿が造営された。この社殿は正保三年(1646)府中本町の大火で類焼するが、寛文五年(1665)久世大和守弘之を奉行として再建される。これが九間社流造で相殿造と呼ばれる現本殿である。この時三重塔や本地堂は再建されず、仏教色が排された。というよりは、元に戻ったというべきであろう。吉川神道の影響であろうか。
なお東照宮は寛保三年造営の一間社流造である。
東照宮
(注)2021年4月撮影
六所宮の初見は「吾妻鏡」寿永元年(1182)、源頼朝が安産祈願のため、伊豆山、箱根、鹿島、香取、上総一宮、相模一宮等々とともに、武蔵六所宮に使者を出し、武蔵国を代表する神社として名を載せる。関東武士集団にとってまだ武蔵国のシンボル的存在であった。このことは徳川家康の江戸開府時の崇敬にもつながる。
江戸開府は慶長八年(1603)、江戸の町の整備も始まり、六所宮もまた慶長十一年大久保長安を奉行として三殿並列の社殿が造営された。この社殿は正保三年(1646)府中本町の大火で類焼するが、寛文五年(1665)久世大和守弘之を奉行として再建される。これが九間社流造で相殿造と呼ばれる現本殿である。この時三重塔や本地堂は再建されず、仏教色が排された。というよりは、元に戻ったというべきであろう。吉川神道の影響であろうか。
なお東照宮は寛保三年造営の一間社流造である。
東照宮
(注)2021年4月撮影